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Original Novel 遊真 Presents


狂っていた。
ひたすら狂っていた。
狂う事で、自分を保てるのなら、それは狂気とはいわない、正気という。
少なくとも、私の中ではそれが導き出された解決方法。
唯一、一つだけ、……選択の余地がない、解決方法。
……ならば私はそれに縋るほかない。
私の立った一つ残された、砦。
それは堅固に見えて実は、砂で塗り固めたかのように、脆く、儚い……。
いつでも壊す事ができる。
……誰の手で壊される?
それは……。
それは一人の、男。
同じ砂の砦に住まう、一人の男……。
『寂光堂』と呼ばれる古書店、………その軒先で、夕日を背にして彼は立っていた。
私はその時から、こうなる予感に恐れ、そして……喜んだ。
二律背反の心。
そう……。
すべて………存在は二極面なり……。
 
 


寂光堂


月輪の法則

25 仮想世界の崩壊



これほど空白を抱えた家を俺は見た事が無い。
俺達は荒れる一方の風雨に追いかけられるようにして、家へと逃げ込んだ。
……川崎翔子の家へ。
分厚い扉を閉めると、あまりにも空虚な空間に、雨音が、これまた虚しく響く。
初めて訪れた時は、その広さに圧倒されたが、改めて観察してみれば、その広さはただの見せ掛けにすぎない事が分かる。
その中を満たすべきものが、何も無いのだ。
翔子が先に靴を脱いで上がると、照明のスイッチを入れた。
シャンデリアとまではいかないが豪奢な装飾が施された照明の明りが、空白を晒す。
「………どうぞ、これで身体を拭いてください」
自分がまだ濡れたままなのに、翔子は持ってきたタオルを俺に譲った。
申し訳程度に、俺は冷たい雨で濡れた髪を、身体を、拭いていく……。
「………私の部屋に……行っていてください。鍵は開いてますから……、私もすぐ行きます」
そう言うと、彼女は奥の間に消えていった。
俺はそのまま帰ろうと思ったが、扉の向こうから聞こえる雨音が、そうはさせじと激しく鳴っていた。
それに……なりにより……俺は……。

『………翔子、………あんたは翔子でなくて、誰だ?』

俺は、まだ公園での解答を聞いていない。
……一笑に伏してくれれば良かったのだ。
"なにを言っているんですか、夜月さん"、と困った顔をして言ってくれればよかったのだ。
そうすれば、俺はこんな気分に陥る必要がなかった。
……なりたくなかった。
俺の馬鹿げた質問に、彼女は、黙り込んで、言葉を発しようとしなかった。
ただ一言……、帰りましょ、と………。
そして、今、俺はここにいる。
俺は水の溜まった不快極まりない靴を脱ぐと、この空白の家へ上がった。
「翔子…」
呼びかけても返事がない。
俺は仕方なく、彼女の言われた通り、二階の翔子の部屋へ向かった。
目の前の階段を上ってすぐ手前が、翔子の部屋である事は、昨夜、ドアプレートを見て知っている。
記憶に間違いはない。
人が体当たりした程度ではびくともしないだろう扉の、調度目の高さ辺りに、プレートはあった。
ゴシック体で翔子と書かれている……。
俺はその扉のノブを取り、内側に開けようとして……その動きを止めた。
………翔子の左隣の扉。
たぶん、翔子の両親の寝室と思われる部屋が……微かに開いているのを発見したのだ。
その僅かな隙間から闇がのぞいている……。
まるで……俺を誘い込むように……。
僅かな逡巡の後、俺は川崎夫妻の寝室の扉を開けていた。
…………。
……一体、俺は何をしようとしているのだろう……。
まるで空き巣か何かのように、無断で人の家を探ろうとしている…。
寝室の扉を開けた先はやはり、暗闇だった。
俺は眉根を寄せる。
嫌な臭いがした。
これは………腐臭だ。
そう気づいた時、激しい葛藤に見舞われた……。
このまま……このまま、この部屋に入るべきか、それとも遠ざかるべきか……。
入ってしまったら……何かが壊れる気がする……。
……だが……俺は……真実が知りたい。
俺はその部屋に足を踏み入れた……自制が効かない。
踏み入ると同時に、その部屋の空気が質量を持って、ゆるりと移動した。
後ろ手で、ドアを閉める。
俺は手探りで……部屋の電灯のスイッチを……入れた。
十五畳程の洋室。
中央には、敷かれたシーツがしわくちゃになったダブルベッド。
窓際に、化粧台が一つ。
東側に作り付けの洋服ダンスが一つ。
タンスは大きな観音開きになっている……。
……他には何もない。
寂しい部屋。
………最初に目に入ったのは……小さな紙切れだった。
化粧台の上に、あまりにも無防備に置かれた紙人形……。
そんな取るに足らないはずの一枚が、俺に多大な衝撃を与えた。
あれは……撫物(なでもの)だ……。
……思い出したくも無い知識。
己に降りかかる、全ての凶事を移す、代替人形……。
呪詛(すそ)を防ぐのにも……また、呪詛返しを防ぐのにも使われる一枚。
俺は震える手でそれを取った。
真っ二つに切られている。
まるで切れ味の良い刃物で切られたかのような……。
一体何で……、いや、違う。
俺は頬を強く噛み締めると、手にした撫物を握り潰した。
違うっ、俺は知っている。
この切り口を知っている、この太刀筋を知っている。
なぜなら、それは………。
……それは、俺が切ったもの。
昨夜、俺がこの隣の部屋で、行った呪詛返しの一撃。
一瞬、ほんの一瞬だけ意識が遠くなった。
窓の外から聞こえてくる雨音が、耳元から遠ざかる。
なぜだ。
なぜ、翔子がこれを持っている。
持っていては困る。
全てが、全ての符号が合ってしまう。
俺の思った通りの結末へ、流れていく……。

彼女が自分自身で、呪いをかけていたという結末へ。

ならば、ならばこのタンスの中には何が入っているのだろう。
この、部屋全体に染み付いてしまった腐臭。
それがもっともきつく、立ち込めてくるこのタンスの中には……。
俺は得体の知れない力に動かされるようにして、観音開きの取っ手を掴んだ。
一気に開く。

…………。

…そこにはあった。

…俺はどいつも知らなかった。

ただ、それがどういう物体であるかは、解る。

………首だ。

人間の首。

肉がほとんど削げ落ち、白骨化の一歩手前の首が、合わせて三体。

無造作に…転がっていた。

………なぜ、……こんな所に…首が在るんだ………?

「だって、首がないのだもの……」

背後からくすくすと蟲惑的な笑い声。

その先にあるものを信じたくなくて、俺は本当にゆっくりと首を巡らせた、その内に、その場から消えてくれと祈るようにして……。

だが、翔子はそこに立っていた。

いつのまにか開かれた扉の入り口で、虚無を湛えた瞳で……。

俺はその瞳を良く知っていた。

瀬能と同じ瞳だ。

狂ったものの瞳だ。



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