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Original Novel 遊真 Presents



寂光堂


月輪の法則

26 夜月の到達した真実



「あれ?……なーに、なんまり驚いてないね、夜月さん」
けらけらと笑いながら、翔子は俺を蔑んだ目で見据えてくる。
彼女の背後の扉が、勝手に、音もなく閉まった、電灯も消える。
だが、翔子の身体は淡い燐光に包まれて、はっきりと見て取れた。
「ねえ、なにを、そんな怒った顔してるの?怖いなぁ…」
首を可愛く傾げて言う。
「お前は、誰だ……」
俺は低い声で、ただそれだけの疑問をぶつけた。
翔子、否、翔子の顔をした女は、赤い唇をなぞりながら答える。
「もちろん、翔子よ」
「お前は、誰だ……」
「ちょっと、夜月さん、頭可笑しくなっちゃったの?」
「呪いは……、真帆という女性にかけた呪いも、俺に掛けた呪(しゅ)も、お前が掛けたんだろう」
会話がかみ合っていない。
微かな苛立ちを瞳に込めると、それを察して女の笑みは深みを増す。
「ふふっ、そうよ。全部、私が掛けたの。なんだちゃんと、わかってるじゃない」
「……解っていないさ、俺は、お前が誰かと問うているんだ」
「だから翔子だ――」
「黙れっ!」
女の戯れ言を、一喝して俺は止める。
「お前は翔子じゃない………依子……そんな名前じゃないのか?」
はじめて女の顔が笑み以外の表情を作り出した。
驚きではない……眦を吊り上げ、口を閉じ、俺を睨み付ける。
怒りだ。
「……なんで、あなたが、その名を呼ぶっ」
言葉使いまでがらりと変わった。
俺は脇腹に当てていたハンカチを抜き取った。
翔子から借りた、刺繍入りのハンカチ。
入れられた刺繍は、………W依子W、……W翔子Wじゃない……。
「……初めから、………翔子が怪しい事は解っていたさ…。鷹志さんに…指摘されたしな。本来、呪いは対象と接触しなければ、効果を発揮しないし、時間をかけて行うものでも在る。…それが、俺がこの家に来てすぐ、呪いに遭遇した……いや、違うか。あれは間接系の呪いなんかじゃない、俺という対象の位置を完全に把握してかける直接系の、呪(しゅ)だ。呪(しゅ)なら、俺の近くにいなければ無理だろう……おのずと……」
俺はそこで、女を指差す。
「翔子が怪しいと感じた」
他にも、彼女を訝しむだけの材料は山程あった。
存在を封印された真帆の死を悟り、俺達に救いを求めてきた事もその一つ。
「なら、なぜ直ぐに、わたしを疑わなかったのかしら」
「簡単な理由だ」
そう簡単な理由……。
簡単すぎて、本来の俺なら一笑に伏してしまうような、薄弱な理由。
根拠などない。
「………翔子が、そんな事をする奴じゃないからな…」
ほとんど直感だ。
だが、女は笑うどころか、更に、視線を鋭くした。
辺りに淀むのは瘴気。
がたがたと窓枠が鳴るのは、外の風のせいではなくて、内の闇の膨張。
「だから、俺は聞いている。……お前は誰だ、と。翔子に取り憑いた悪霊か?」
「……なぜ私が取り憑いたと思う。……私が…翔子が、瀬能のように狂っているとは思わないの」
「……俺は二度、翔子に向かって真名を使用した言霊を放った。一度目は効いた、だが二度目は効かなかった」
一度目は、柔剣道場が闇に囚われた時、翔子を見つけ出すために使ったW呼びかけWだ。
二度目はもちろん、W縛糸Wをかけた時。
「これは、すなわち、翔子の身体に、翔子以外の意志があるという事だろう……」
「それが、この私という事かしら?」
「ああ、そうだ」
女が笑った、劇的なほどけたたましく笑う。
俺はほとんど発作的に、布都御魂剣を具現化させていた。
怒りにも近い感情で、刀を薙ぎ払った。
切られた風が悲鳴を上げる……。
「なにが、可笑しい。全てあっているんだろっ!俺の推論はすべて事実だっ!そう言えっ。お前は翔子に取り憑いた闇だ。取り憑いたものならば、俺が、祓ってみせる」
「あなたの言う事は、身勝手すぎるわ…。そんなに翔子が大事なの?私という人格が翔子にあったら困る?」
「お前は断じて翔子じゃない」
合って堪るか。
「うふふふふ……」
この女の笑いは深すぎる。
奈落の底から、生者を引き擦り落そうとする、亡者の手だ。
捕まれば俺も狂気に堕される。
「そう……、そんなに答えが欲しいの…。だったら言ってあげる。そうよ、私は翔子じゃない、依子……。でも彼女とは切っても切り離せれない絆を持つ者、唯一同じ業を持ってうまれた者、……双子の姉妹よ」
双子の姉妹だと……。
馬鹿なっ。
「翔子は川崎家の一人娘だっ」
「嘘だと思うのなら、そこで無様に首を並べている馬鹿な親に聞いてみる事ね。その存在さえも消された可哀相な娘の事をっ」
「貴様、もしかして水子かっ!」
生命を得ながら、現(うつつ)に産まれ落ちる事のなかった赤子の霊。
それは恐ろしいまでの妄執に囚われ、その家族を呪う。
「水子?…水子ですって。ふざけるなっ、そんなた易い恨みじゃないっ!」
依子の一喝が、部屋の空気を振動させる。
脇腹の傷にそれは響いた。
思わず顔をしかめる。
こいつは、子供だ。
笑っていたかと思えば直ぐに怒る……子供。
「だったら、なんだというんだっ!」
俺がそう替した時には、もう依子の顔は冷えていた。
嘲り、見下してくる。
「関係ない。……あなたは目障りだ、翔子の瞳を濁す者だ。ただ一心に私の思いを受け止めさえすればいいのに、お前はそれを邪魔する……」
言っている意味が解らない。
この女が言うように、俺はまだ真実に到達していないのだろうか。
翔子という存在を大事に思うあまり、邪推が産まれているのだろうか…。
……どちらにしても。
俺は、翔子の存在を認めても、この女の存在は認めない。
そうして、この女は、俺の存在を認めないらしい…。
だったら、俺みたいな単純野郎の出す結論は一つしかない。
「どうでもいいさ、お前が翔子に取り憑いた存在以外の何者でもないなら、それでいい。翔子でなくて、お前がこの一件を起こしていたのならそれでいい……。それで翔子にかけた疑惑が晴れる。後やるべき事は、翔子を助けるためにお前を祓う事だ」
俺の感情に引っ張られたかのように猛る布都御魂剣を平正眼に構えた。
そのまま猫科のように体勢を低くしていく……。
瞳も、獲物を狙って細められた。
「お前に私が、祓える者か、祓えたとしても……」
「翔子を助ける、それが俺の受けた依頼……いや、頼みだ」
どちらも譲らない。
俺と依子の瞳が重なり合った時。
闇が反転した。
一瞬の白光が辺りの世界となる。
夜空が裂け、雷鳴が轟く。
再び闇に立ち戻った時、俺は建御雷命を縦に凪いだ。
…………。
……。

 
……。
…………。
……私は、また…ここにいた……。
もう何百回と繰り返してきた情景……。
川岸に立つ私。
此岸と彼岸を別つ、赤い川は膨大な水量を、果てる事無く流し続ける。
しかし、音はない……無音。
確かに川は流れているのに……その音は聞こえなかった。
薄ぼんやりと、血霞で覆われた聖域…。
私は……此岸に立つだろう、夜月さんの姿を探し続けた…。
腰を下ろし、両足を抱え、己の身体をできるだけ小さくして……あちらの岸に視線を向ける。
……夜月さんは……まだ現われない……。
…………。
……。

 
……。
…………。
どっと、瞬間的に闇が質量を持って膨張した。
外界で吹き荒れる風との均衡を保っていた窓は、内側からあっさりと弾けた。
風も、雨も、吹き込んではこない。
部屋へと侵入する前に闇へ弾かれてしまう…。
大気が振動していた。
一定のリズムで鳴動している……これは翔子の、いや、依子の心音…。
俺は彼女の体内にいるのだ…。
この川崎邸全てが、依子の結界内だという事に俺は間抜けな事に今気づく。
罠にかけられていたのだと気づく。
周到に、二重にも三重にも重ねられた闇は、そう簡単には剥がれ落ちない。
「あなた………もう逃げられないわよ」
憎むように、哀れむように、女は笑う……。
「逃げるつもりはない」
俺は即座に答えた。
「……そう、………なら死になさいよ…あっさりと。そこに並ぶ首のように、苦悶の表情を浮べて、死になさい……」
胸がむかついてくる言葉を、簡単に口にする。
「黙れっ!翔子の口を使って、翔子の姿を使って、そんな言葉を吐くなっ!」
依子の笑みがその刹那閉じた。
一切の感情が抜け落ちる……。
「翔子は私、依子も私。何も知らないんだから、あなたは……」
依子の輪郭がぼやけた。
周りに闇に溶け込んでしまうような……錯覚。
「口を出す権利はないのよ……」
「うるさいっ!」
叫びながら、胸のポケットから、親指程の針を五本抜き取った。
呪い針だ。
これを、東南西北央の五つの方位へ突き刺す。
まずは中央っ。
片膝をつき、鋭い呼気と共に、俺は床板を貫いた。
「東方、木難消滅」
後四つ、それで四方を固めて、強力な封縛を試みる。
いくら奴の結界内とはいえ、その強制力には適わないはずだ。
「……無駄なあがきを」
だが、依子は笑った。
ゆっくりと俺に腕を伸ばす様にして…呟く。
「………死ね」
命令形だ。
続く首元の違和感…。
視線をそこに這わす事をせずに、右手でなぞる。
細く…長い糸の感触。
それは間違いなく俺の首を締め上げてくる……。
…………。
……。

 
……。
…………。
微やかな鈴の音に、わたしは周囲を見回した。
……何も……ない……。
やはり、赤い川が流れ続ける呑みだ。
他に一切の余分は見当たらない……。
気のせい…ではないはずだ。
だって、ここは無音の世界……。
どんな些細な音も、どんな遠くから届く音も聞き逃すはずの無い…世界。
もっとも…、その音が聞こえたからといってどうなると言うのだろう…。
何も関係がない…わたしには…。
それよりも…。
此岸に訪れるはずの、あの人。
……あの人がまだ来ない。
瞬きもせずにじっと見据え続ける……。
少し、疲れた…。
わたしは双眸を閉じると、組んだ足の間に顔を埋めた……。
…………。
……。

 
……。
…………。
「同じ事を何度もっ!」
俺は毒づきながら、心の内で戦慄した。
依子の結界内で強靭さを増したこの糸を、俺は切断する手だてを持たない。
後数分もせずに依子の言うように、首と胴を分断するだろう。
よろめきながら、俺は不敵に笑い続ける依子に向かって走った。
振るった剣は虚しく空を切る。
だが、そのまま俺は速度を止めずに、部屋のドアへ向かって肩からぶち当たった。
乾いた音と共に、木片が弾け、俺は転がりながら、厚手の絨毯が敷かれた廊下へと飛び出る。
吹き抜けのホールは、暗い。
ここもまた、依子の内の世界だ。
「うふふふふ……」
破られたドアの向こう……、背後から掛けられた狂った笑いを振り切り、階段の踊り場へ手摺を越えて飛び降りた。
降り座間に二本目の針を刺す。
「南方、火難消滅」
「無駄だといっているでしょう……」
いつのまにか、振り仰いだ先には俺を見下ろす依子の顔。
闇を湛えた瞳が、俺の瞳の奥を覗き込んでくる……。
「ぐあっ……くっ、がっあぁっ!!」
糸の締め付けが加速度的に上がった。
薄い皮を突き破り、赤い血が、俺の首から滴り落ちる…。
そのまま俺は盛大に、残りの階段を転がり落ちていった。
体中のあちこちが軋む。
死力。
間違いなく死力を尽くして俺は、おぼつかない足を奮い立たせた。
もう走っているか、歩いているかも解らない足取りで、靴脱ぎの場までいくと、第三の針を突き刺す。
「西方……金難消滅……」
更に、振り返ると同時に、第四の針を投げる。
それは狙い通り、的へ突き刺さった。
「北方、水難消滅」
後、一つ。
最後は中央、つまりはホールのど真ん中。
視線が自ずとその場所へ釘付けになった、その瞬間。
「御遊びはそこまでよ……」
背後から声。
咄嗟に振り向く間もなく、俺の四肢を何かが食いついた。
食いついた勢いは止まらず、そのまま数メートル俺を引きずって壁にぶち当たった。
「ぐほっ」
強力な膂力を持って、俺の身体は空中に持ち上げられる。
俺は抵抗するまでもなく、ぐったりとしたまま、巻き付いたものの先を、睨んだ。
依子が、立っている。
薄い色の髪は、闇を映している、そうしてまるで一個の独立した生物のようにゆらめいていた。
俺の自由を奪ったのはその髪の毛だ。
「残念ね……」
心底残念そうな顔をしたかと思うと、次には蔑むような笑みで、依子は口元を抑えて笑った。
「もうちょっと、だったのにねえ……」
既に息はできない。
後は窒息するのが先か、首を切断されるのが先か……たったそれだけの選択しかないように思える。
俺は、空ろになっっていく瞳を、向けなが呟いていた。
肺の中に残った最後の空気を絞り出して…。
「翔…子……」
…………。
……。

凛、鈴がなる。

……。
…………。
両足に埋めた顔を、わたしはゆっくりと擡げる……。
今度は…はっきりと耳に届いた…、鈴の音が。
瞳を細めて、此岸を眺めやる…。
……誰もいない。
立ち上がり、川の縁まで近寄ってみる。
……誰もいない。
濁濁と流れ、荒れる川面を吹き渡る風が、わたしの髪を舞い上げた。
少しだけ、血潮の霧が晴れる。
それでも、やはり対岸に、あの人の姿はない。
わたしは、踵を返すと、意味もなく歩み始めた。
もう……ここにいるのは止めだ。
あの人でなければ、駄目なのに……、この場所にあの人はいない……。
胡乱(うろん)になる意識のまま、よたよたと私は心とも無い足取りで、川から遠ざかろうとした……でも…。
何かが私の胸に、魚の骨のような尖った物が刺さったまま取れない。

それでいいのだろうか……。

私はまだ何もやっていないのではないか……。
ただずっと待ち続けて……。
何を待っているのかも忘れて……。
何を求めているのかも忘れて……。
そのうち、全てを諦めて……。

それでいいのだろうか………。

私の足が止まった。
胸に刺さった何かが、私をこのままでは許そうとしない。
責任を果たせと、言って来る。
許そうとしない。
………許そうとしないのは…誰?
「……わ…たし?」
声が出た。
私は瞠目したまま、口元を抑えた。
それでも一度出てしまった言葉は消えない。
耳にこびり付いた。
「……私が……、私を許そうとしないの?……だったら……」
だったら、私はどうすれば良いのだろう…。
誰もが、……この世界さえも、私を疎ましい目で見るのに。
私自身さえも、そんな目で自分を見ているのならば……救われようが無い……。
このまま…消えてしまえば良いのか?
それが、答えなの?
これだけ待って、出されたのはそんな事?
「わたしは、そんなの望んでいないっ!」
吐き捨てるように言い放つ。
血を吐くような慟哭へそれは変わった……。
ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「ただ、あそこに居たいのっ!それだけでいいのにっ、それだけが望みなのにっ!」
狂おしい程の望み、だけどそれは逆に……。
「でも厭っ!私があそこに居ては駄目っ!わたしはあんな事望んでいないっ!!」
わたしは頭を抱えて、身体を振った、乱れる髪……。
どうすれば良いのか解らない。
居たいのに、居たくない…。
望みたいのに、望めない……。
二つの相反する感情。
二律背反の……。
二極面の心。
「わたしは、どうすればいいのっ!」
悲鳴。

「翔子………」

私は振り返った。
赤い川の向こうに視線を向けた。
あの人がいた。
優しいだけじゃない、酷く悲しい瞳をした人。
あの瞳を、私は良く知っている…。
だって……あれは、私と同じ瞳…。
私は駆け出していた。
それで全てが解決するわけでもないのに、駆け出していた。
凸凹した砂利に足を取られながら私は駆ける。
夜月さんと、その名を呼びながら。
…………。
……。

凛、鈴がなる

……。
…………。
「……夜月…さん……」
確かに依子の口から、そう声が漏れた。
そうして闇が…薄れた。
四肢を捉えた、髪の毛が、ゆりゆると解かれていく……。
首に巻きついた糸が……消える…。
失われた酸素を、肺が取り戻すと、勢いよく活動を開始した。
酸欠状態で朦朧とした意識は、あやふやなままだ……。
だが。
俺は、その瞬間を逃さなかった。
自由になった両手に、気合を込め、残りの髪をすべて手刀で切断する。
そのまま厚いカーペットに上に四つん這いになるようにして、降りたった。
依子に一体何が起きたのか……は解らない。
まるで惚けたかのように何もない一点を見詰めて微動だにしない。
何か、ぶつぶつと呟いているが、それは俺の耳までは届かなかった。
どちらにしても……。
この好機をを逃す手はない。
俺は最後の方位に呪い針を突き刺す。
どん、と空気が弾ける音と共にそれは空間に刺さった。
びりびりと振動する細く長い針。
それは、同様に五方位へ差し込んだ針と共鳴を始める。
高く、低く、鋭く、鈍く……五つの音階が、完璧な和音を奏でた。
場は熟した。
俺は右手を高々と頭上に上げてもう一つの方角を宣言する。
すなわち。
「王龍(おうりょう)、風難消滅」
射抜くような視線で、標的を捉えた。
「句句廼駆(くくのち)軻偶突智(かぐつち)金屋子彦(かねやこひこ)罔象女(みつはのめ)羽根屋須姫(はねやすひめ)級長津彦(しなつひこ)」
舞う様にして手刀を切る、これが……。
悪切。
朗々と命を放つ。
「五方の針から逃さじ、五縛!」
一筋の稲妻が、依子の身体を貫いた。
その衝撃が、放心していた意識を取り戻させたらしい。
依子は焦点の合った瞳を憎悪に燃やして叫ぶ
「なぜよっ!なぜ邪魔をするのよっ!お姉さんっ!!」
血を吐くように叫ぶ。
俺に向けられた言葉じゃない……姉さん…だと?
「翔子の事かっ!」
俺の問い掛けに身動きを封じられた、依子は呪いの言葉を吐いた。
「お前……お前が全部悪い、何も知らないくせに、私と姉さんを滅ぼすのねっ!死んでしまえっ、消えてしまえっ」
「俺が、翔子を滅ぼす…だと……」
聞き捨てなら無い。
俺は、翔子を助けこそすれ、滅ぼす謂れはない。
ましてや、この女にそのような言葉を見舞われる理由は微塵もない。
もっとも、三人の親しい者をた易く殺した、依子の言葉など無視をすればいいのだが……。

俺は酷く気になった。

これ以上、依子に話しをさせるのは危険だ。
意味もなくそう思った。
「川崎依子よ、川崎翔子の身体より、落ちよっ!」
だから、依子を、翔子から一刻も落とそうと考えた。
力を持った言葉を、依子に向けて放つ。
「落ちよっ!」
「無駄よっ、私は翔子から離れないわっ!」
依子の発する声は、俺の心を揺さ振る。
中央、王龍を抑え、完璧な東西南北の四方固めを作り上げた俺の一言は、抗う事のできない行使力を持つ言霊になるはずだ…なのに…。
「落ちよっ!」
「あはははは」
なぜだ?
なぜ…落ちない……。
「落ちよっ!」
俺はただ必死に命じ続ける。
馬鹿の一つ覚えのように……それしか方法がないから……。
「落ちよっ!」
「あははははははあはは」
依子の毒を持った笑い声が、屋根を叩く雨音と重なり合い、広い屋敷の中を反響する。
ぐるぐると俺の頭の中でもそれは回り続けた。
俺は唇を思い切り噛む。
ぶちりと皮が破け、血がねっとりと垂れた。
「落ちよっ!!!」
怒号……そして……。
五方の針が一斉に砕けた。
同時に、依子の身体がまるで糸を切られたマリオネットのように、ぐしゃりと倒れ込む。
針の砕けた残響が、暗闇に覆われた、空間で、残り続けた。
それは、そのまま耳鳴りとなる……。
「……なぜだ……?」
俺は独白する。
膝を落とし、拳を床に叩きつけた。
「……なぜ落ちない……」
意識を無くして横たわる少女、その姿を空ろな視線で見詰めて、そして俺は頭を垂れた。
床には、真紅の染み。
俺の腕から流れる、血液の色。



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