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Original Novel 遊真 Presents



寂光堂


月輪の法則

28 裁決の時(上)



夜空は裂けていた。
時折、稲妻が暗雲の間を走り、堕される雫は、なによりも冷たい洗礼として俺に降り注いだ。
すべては闇に沈んでいる……。
俺に一切の光明は灯らない。
ただ、ひたすら力の限り、前へ前へと走る。
足を止めてしまったら最後、俺は闇に捕らわれてしまうだろう…。
足に取り憑く闇を、俺は前に突き出したもう一つの足で、引き抜く。
その繰り返しだ。
いつ果てる事も無い……。
「翔子っ!!」
俺はその名を呼ぶ虚しさに絶え、叫ぶ。
雨音がそれをすべて消し去る。
……解っていたのだ。
二人の心が奇妙にも惹き付け合う理由は……解っていたのだ……。

……彼女は、もう一人の俺だ。

いや、未来の俺の姿なのかもしれない……。
一つの身体に二つの魂を宿したW狂いWは同種のものだった。
ただ俺と彼女の違いは一つ。
俺は、彼岸へ渡る事が無かったが、彼女は彼岸へと渡ってしまった……、事実。
すれ違ったのは、互いの思い。
俺は彼岸へ憧れ、彼女は此岸に未練を持った。
彼女が踏みとどまった俺に、此岸へ引き戻して欲しいと願っていたのに、俺は彼女に此岸へ引き寄せて欲しいと願った。
どちらの願いも届かない。
………届くはずはないのだ。
誰も、独りで生きているから……。
他人の心を読む事ができない、それは当たり前の事なのに……。
当たり前の事なのに……。
俺は自分が厭になっていた。
彼女の苦悩を読む事ができなかった自分に嫌悪の眼差しを向ける。
よく、己自身も救えないで、他人は救えないというが……。
あれは嘘っぱちだ。
他人が救えなければ、当然己自身も救えない。
己自身を救う事こそが一番難しい。
自分を間違っていると、自虐でもなく本心から言える勇気を持つ奴など、この世にいるもんかっ。
言ってしまえば、それは己の存在を否定する事になるのだから…。
だからだっ!
だから、翔子は俺に、俺に助けを求めたのだ。
俺は鷹志さんという存在のおかげで、狂気の扉を開ける事なく踏みとどまる事ができた。
……だが、彼女には……。

彼女の側には、同じように狂気に憑かれた依子しかいなかった。

「くはっ!」
気づいた時には、俺は水溜まりの上に、倒れ込んでいた。
泥水の苦味が、口の中に広がる。
何に蹴躓いたかは解らない、ただ脛辺りに、鈍痛が走っていた。
血が滴っている。
今宵だけで、もう一体どれくらいの血を俺は流したのだろう……。
性も根も尽き果てて、血液も枯れ果てて……動けなくなれば、楽かもしれない。
楽かもしれないが、俺の血はまだ、こんこんと流れてくるのだ。
流れている内は、進まなくては行けない。
それが生きている者の、死者に対する慰霊……。
俺は立ち上がった。
躓いた物体は何か、振り返って見ると、それは車止め。
逆U字方でアスファルトに埋められた、鉄の楔。
俺は、無心の内に、公園の入り口まで来たのだ。
翔子と語り合った、夜桜の奇麗な公園……。
豪雨の中、騒騒(ざわざわ)と桜の木がざわめく音を俺は聞いた…。
彼女はここにいる……。

 
 
 
………。
立ち入り禁止となった茜上高校、柔剣道場内。
その中で行われた凶行を覆い隠そうとするかのように掛けられた青い大きなビニールカバーは、折りからの暴雨で忙しなくはためいていた。
そのバタバタと耳障りな音と、風雨の音、更には時折響く雷鳴……。
それ以外の音はすべて死滅したはずのこの場で…。
笑うものがいた。
遺体は、全て運ばれたが、床、天井、壁に染み付いた、血の色と、臭いは消す事ができない。
そんな、中で……。
迸るW狂いWの流れを感じて、男は愉悦していた。
快感に身をよじらせ、自身もW狂いWに浸る……。
男の顔は歪んでいる……。
精悍な顔付きを、無限に歪ませている……。
男の瞳には、虚無が覗いていた。
そして男の胸郭にも……ぽっかりと空いた穴があった……。
ヒューヒューとその穴を通って風が鳴る。
男の名前は瀬能と言った。
「いひひひっ、翔子も、依子も、もっと狂え……狂って狂って、多くの人間をその渦に捉えるんだっ」
身体を仰け反らせて笑う。
何が楽しいのだろうか…彼の心には夜の闇がある、しかも日の出を迎えない永劫の闇だ。
……晴れない闇は、もう闇とは言わない。
人はそれを狂気と呼ぶ。
癒える事のない狂気なら……。
「……いっそ、私が引導を渡してやろうか、狂い人……」
冷涼を伴って、瀬能の背後から声がした。
板張りの床をコツコツと鳴る靴音……。
瀬能は振り返ると、無表情のまま柔剣道場内を見回した……。
誰も…いない……。
そもそも闇が濃いとはいえ、四方、数十メートルもない空間だ。
誰かが、いるのならばその目に止まるはず……だが…。
聞こえるのは靴の音だけ……。
少しづつ、少しづつ……瀬能の見据える先から近づいてくる。
ただ、実際に瀬能の目に映っているのは、瀬能自身が布都御魂剣で縫い付けられた壁と、その上に置かれた神棚のみ……。
やがて、靴音は瀬能の直ぐ目の前まで来た……。
「この世界に淀む闇は、一所から吹き出した氷山の一角に過ぎない。元をたどれば根はどれも同じ。さすれば闇から闇へ移動できるは道理」
闇から人が生まれた。
瀬能の瞳には間違いなくそう映った。
まるで闇から浮き出す様にして、一人の男が現われたのだ。
「……泰山鷹志……」
僅かに瞼を引く付かせて、瀬能が呟いた。
鷹志は、両手をコートの内にしまったままの、無防備な姿を晒して立ち止まる。
「……やりすぎだ、女狐…」
冷たい笑いを携えて、きゅっと細められる双眸……。
「W狂いWはW動かすものWではない、W動いていくものWだ。お前のやっている事は、己自身のみならず、周りの人間をも巻き込む凶行でしかない」
「……もとより、それが願いよ。依子を魔道に落とし、翔子を覚醒させたのも、私の願いだ」
劇的に、瀬能の言葉使いが変わった。
だらしない顔つきはそのままだから、そのギャップが逆に気味の悪さを呼ぶ。
鷹志は一向に気にしない。
「そうして、その身体をも乗っ取ったか。傀儡師らしい、臆病でくだらん手法だ」
「この男は、然るべき病んだ心の持ち主だったのだよ。教師という職業に夢を抱き、教え子達との理解を深めようとしていた。それが逆に、生徒から忌まれ、さらにはその親からも謗られる……ふふっ、弱い男だったんだろうよ、そのジレンマでもう限界が近かったのさ……」
「だが、最後の一歩を踏ませたのは、貴様だろう……」
「どうせ、ほっておいても勝手に踏んでいた」
鷹志は笑った。
この男には珍しく肩を揺する程に笑う。
「何が可笑しい……」
「浅はか過ぎて、笑ったのさ。人は、そうた易く最後の一歩は踏まないんだ…。彼岸へ渡るか、渡らざるべきか、究極の選択を迫られた時、人は堪える事ができるのさ。夜月は、狂気は滞る事で偶発すると思い込んでいるようだがね。………狂気はいつでも来るんだ。どの人間もWずれWで満たされている。余裕があるとか無いとか……そんな事はない。いつでも人間は限界の縁に立たされているのさ」
鷹志の勢いに、呆気に取られた瀬能は口を固まらせた。
もっともすぐに、にやついた笑みを思い出す。
この男に秘められた闇は、そう簡単に打ち破れるものではない。
だが瀬能は知らない……鷹志の纏う闇の方が濃い事を……。
「人は絶える事ができるだと?信じられんな」
闇は容赦なく切り捨てた。
夜月へ対するように、懇切丁寧に説明する手間を彼は省く。
そうか…、と中空に独り言を飛ばすと…。
「ならば去ね」
途端、瀬能の身体が激しく震えた。
万物全てが逆らう事の出来ない、強制力が、鷹志の一言には含まれている。
一歩、鷹志は踏み出した。
二歩、瀬能は退く。
「去ね」
「がっっがっがっがっがっっ、泰山……」
瀬能は踏みとどまる様にして、懐から取り出した小太刀を、無防備で近寄る鷹志に突き立てようとする……が。
「刃を禁ず」
『禁術』、この一言で、瀬能の持った小太刀は無力化した。
鷹志には文字通り刃が立たない。
「あの二人の心を知らぬ、お前のような輩は、即刻この場から退場して貰おう……」
そして最後の駄目押し。
「瀬能雅彦の身体より、疾く、去ね」
瀬能の身体から、闇が昇る様にして天井を突き破った。
同時に、瀬能の身体が倒れる。
降りかかる木片は、不思議にも鷹志の身体まで到達しない……。
「女狐が……、三度会う時は容赦しないと思え……」
独白……。
そして……。
「う…………うぎゃあああぁぁぁっ!……な、なんだおぁぁ、いたいぃ、いたいぃっ」
憑き物を落とされた、瀬能は激痛に悲鳴を上げた。
胸に大きく穿たれた風穴。
本来なら即死のはずの傷をかかえ、瀬能がのたうつ。
必死で、這いながら、鷹志のコートの裾を掴んだ。
本人は死にも狂いで引いているつもりだろうか、それは弱々しいものにしかならない。
鷹志は無表情に見下ろした。
脂汗を滴らせ、口から血沫を吹きながら瀬能は懇願する。
「ひぎゃあぁ、た、たしゅけ……て……お…ねが……おねがい……しまっ……」
教師になる以前は澄んでいたのだろうその瞳は、濁っていた。
鷹志はその哀願に穏やかに答えてやる。
「…解った、助けよう」
「お、おねが……おなが……しまっ………」
鷹志の声は届いていない。
それでも鷹志はコートの内から右手を出すと、片膝をつき、コートの裾を掴む瀬能の手に重ねた。
そしてじっと、濁った瞳を見返しながら……。
「せめて、次の世は、狂いに落とされないよう、生きろ」
言葉が終わると同時に……。
瀬能の首が飛んだ。
胸の空洞から流れきったと思われた血液が、首の根元からどくどくと流れ出す。
鷹志の重ねた手は、生の余韻を残すように、痙攣していた。
数秒、そのままの姿勢で座り込んでいた鷹志は首無しの遺体を静かに横たわらせると、ゆらりと陽炎のように立ち上がった。
降り込む雨の下、瀬能の遺体に火が点き、勢いよくそれが全身に回った。
荼毘に付される亡骸……。
「やはり……やりすぎだ」
赤赤と燃える炎の照り返しを、左頬に写し取りながら……。
西の方向に視線を移す。
もちろん、板作りの壁しかそこにはない。
しかし鷹志は、二つの身体と四つの魂を持った悲しい者達を、見ていた。
……手出しはしない。
これは自分の物語ではないのだから…。
ただじっと、鷹志は事の成り行きをそこで、見ていた。



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