騒騒……騒騒……騒騒……。
桜並木の道を、風が吹き渡る……。
その度に……桜の木が揺れた…。
赤いレンガが敷き詰められた道を、風雨に晒され舞い落ちた花が、紅淡色に染めている………。
俺が一歩踏みしめると、足元が僅かに沈み込むほどだ。
………桜で彩られた絨毯と言っても過言ではない。
俺の瞳にそれは、やけに奇麗なものとして映った……。
今夜中に花はすべて散るに違いない。
その、呆気なさが、儚さが……誰かとたぶる……。
俺はその誰かを呼ぶ。
「翔子っ……」
風の音に掻き消されないよう……呼ぶ。
あいつは、必ずここにいる。
確証はないが、必ずだ。
あえて理屈をこねれば、ここに俺がいるから……。
同じ"ずれ"を持ち、狂気に落ちた者と、落ちなかった者………。
近いようで、遠い。
同質のようで、異質。
………二極面の存在。
まるで磁力のそれと同じく、両極は、互いを惹き付け合うものだ……。
「翔子っ……」
だから呼ぶ。
気づいてやるのが遅かった、もう助ける事は不可能かもしれない…。
だけど……少なくとも……。
彼女を救ってやると…。
助ける事ができなくとも、救ってやると…。
俺は自分自身に誓ったのだから。
「………夜月さん……」
俺の背後から……翔子の…声。
振り返ろうとして…。
「止めてっ!!」
翔子の悲痛な叫びが、俺を反射的に硬直させた。
「…こちらを……見ないでください……。私に……私には………」
泣いているのか……。
鳴咽まじりの声だけが、俺の背中にぶつかる…。
「……あんたの性じゃないだろ。………全ては依子のした事だ。もし、依子のしでかした事に責任を感じたのなら、止めておけ……そんな…」
そんな、自分を追いつめるだけの思考は…。
閉じてしまえ、何も考えるな。
そう続けようとして、俺の口は止まった。
止まらざるを得なかった。
俺の声と重なる様にして、告白した翔子の言葉に、俺のくだらない慰めは、消し炭となって原形を無くした。
「私は、全部知っていたんです……」
…んだって……。
…なんだって?
風に流された木々のざわめきがうるさい…。
延々と降り続ける雨の音がうるさい……。
第一、背中越しで話された声は、あまりにも不明瞭だ。
………聞き間違え。
自分の両親を、親友を……誰よりもかけがえのない人達を、その手にかけた事。
その事実を知っていたなどと…。
………聞き間違えだよな……。
俺は、それを確かめようとして……振り返った。
今度は、翔子も何も言わない。
………翔子は笑っていた。
びしょ濡れで、肌に張りついた白のブラウス、…その胸元で両手を組んでいる。
僅かに肩が震えているのは、凍えているからだろうか……泣いているからだろうか…。
ただ、その今までに無く意志の篭った強い瞳は、彼女の言った科白を、全て肯定していた。
………本当なのか?
俺の無言の問い掛けに、彼女は肯いた。
………何も言えない……いや、言うべき言葉はなかった。
今、俺のすべき事は、次に続くだろう翔子の告白を、聞いてやるだけ……。
「……私と依子は産まれた時から、お互いを認識していました……」
翔子が語り始めるのと同じくして、雨脚が弱まってきた…。
「それでも、現実を生きているのはもちろん、依子の方……。私は、ただただ理由が解らず、彼女の心の奥の方で、存在していました……」
「……あんたは、その時、その事を…」
不明瞭な問いに、明瞭な答えが返される。
「……はい。私は心の奥底に居たけど、全てを依子と共有していました。……だから…両親の事も……真帆ちゃんの事も……前川さんや相原さん、クラスのみんな……、依子と同じくらい知っていて、依子以上に…好きでした……。……ちょうど夜月さんと同じです…」
……違うだろう…。
翔子には主導権などなかったのだ。
ただ依子によって、閉じ込められた檻の中から、外の景色を覗いていたに過ぎない。
………憧れの眼差しを向けて…。
「じゃあ……いつから………」
俺の声は、さっきから掠れてばかしだ。
喉の間で摩耗して、口から出た時には、もう消えている。
もっとも、翔子は俺の言いたい事など、全て解っているらしい。
「一ヶ月前……、依子が父さんと……母さんを…殺した日から…。わたしは翔子として……」
依子と、その両親の間に何があったかは解らない。
ただ、漠然となら俺でも想像がつく。
……たぶん……依子に向けて、川崎夫妻は禁忌を口にしたのだ。
禁忌とはもちろん、双子の姉、翔子の死の事実。
……それが、依子の内に密かに隠されていた"狂気"を呼び起こした……古い記憶と共に……。
「……わたしが……わたしとして始めて、感覚を得た時……初めて見えたのは、赤一色で染まった部屋で…、初めて嗅いだ臭いは、吐き気を及ぼすようなすえた臭いで……。そうして目の前には、両親の首無しの身体が…無造作に……」
瞼を強く閉じ、俯きながら、翔子はいっそう身体を震わせた。
彼女の瞼の裏には今、その惨劇がはっきりと写し出されているのだろう…。
俺はただ痛ましさしか感じない、その小さな身体をどうする事もできなかった。
……やはり、聞くだけ…。
俺と翔子との間に穿たれた距離は近いようで遠く、縮める事ができない。
「わたしは…、わたしはっ。……ただ、……呆然として……。もしわたしが、依子の外に出る事ができたなら、父さん、母さんと呼ぼうと思っていた人は、もういなくて…目の前で死んでいて…わたしは……わたしは……」
「翔子っ!」
俺は慰めるのでなく、叱咤した。
彼女の身体がびくりと跳ねた。
そして……ゆっくりと濡れた項をもたげ、瞼を開き……疲れた表情で俺を上目遣いで見やる……。
雨は……雨はいつのまにか止んでいた…。
後は名残のように、強い風が吹いているだけ……。
「翔子。お前は俺に、聞いて欲しいんだろう?お前のやってきた事を俺に聞いて欲しいんだろう?……だったら、脅えてないでしっかりと話してみろ。……お前の話しは全て…」
「全て、俺に届くから……」
翔子は肯いた、俺も肯いた。
……それですべては通じる……。
翔子の全ては、俺に届く……。
「………わたしは、錯乱しました。ただ愕然として、そのまま気を失いそうになって……そうしたら……」
そうしたら…?
「……依子が私の中で語り掛けてきたんです」
何を?
『ほらね、姉さんはちゃんと生きているじゃない、父さんも、母さんも嘘吐きなんだから。どこ行っていたの? これからは一緒だよ』
依子のあまりにも強く、歪んだ心がついに翔子という存在を表面へと押し上げてしまったのだ。
「わたしは、彼女に囁かれるまま、両親の死体を公園に捨てて、首をタンスに入れた。そうすれば、全てが上手く行くと彼女が言うから……。誘いに乗ったんです。わたしはこの世界に居たいから…、それは交換条件みたいなものでした……」
「……そんなにこの世界が、魅力的に映ったか……」
「映った。……それしか言いようが無い…。何も無いわたしに、全てが与えられたような気がして……両親が死んだというのに、実際の所、たぶんわたしは……」
その先は聞きたくはない。
聞きたくはないのだが、聞かなくてはならない。
俺と翔子との間へ確実な隔たりを及ぼす言葉が紡ぎ出されるのだ。
俺は覚悟した。
「身体を得た事に、狂喜していたんです」
頭上の桜並木が騒騒と鳴る中、彼女の言葉は透き通って聞こえる。
「あんな恐ろしい事をしたのに、私は次の日から、学校へ通った。友達とお喋りして、部活で身体を動かして、行けなかった場所へ行ってみて……、そういう普段通りの生活を楽しんだ。……次に……真帆ちゃんが、依子の嫉妬から標的になった時も、私は私を守るため、知らないふりをした。……そうしていつのまにか、本当に、記憶から抜け落ちた……両親の死も、真帆ちゃんの死も、依子の存在も……」
……川崎翔子は、依子以上に……彼岸を渡っていた。
彼女の狂気は、依子の姉に対する思いよりも狂っていた。
誰もが理解できない狂いだ……だけど……。
「……それが正しいよ」
俺は始めて意見する。
翔子は目を見張り、驚いた顔をした。
俺が罵倒でも浴びせると思ったのだろうか……、たぶんそうなのだろう…。
「それが正しい。それが川崎翔子の真実だ。あんたは、あんたの真実を貫き通したんだろう…」
「……そうでしょうか……」
「そうだよ。誰も、他人の思いにケチを付ける事などできない。一個として生命を得た以上、自分は自分の真実の上を歩いて良いんだ。人が創り上げた罪なんて糞食らえだ」
それが、翔子が間違いなく、この世界を生きた証拠なのだから…。
「………強引…ですね……」
困った顔をして、翔子は微かに笑った……。
「前に言わなかったか?……強引なのが、俺の本性だって……」
そっと……まるで漂う雲のように、翔子が俺の傍らまで歩を進めた。
俺を見上げる彼女……。
そして…右手に触れる冷たい感触は……。
「………歩きませんか?……」
しっかりと手を握りながら、俺を引っ張るように彼女が歩き出した。
俺は、その手につられるようにして、続いた。
殆ど花の散った、桜並木を、俺達は二人で歩く…。
お互い、ずぶ濡れのその格好は、第三者が見れば奇特以外の何者でもないはずだ…。
だが、それが自然としっくりと来た。
雨上がりの真夜中。
嵐の余韻は既に消え、風も心地よいものへと変わっている…。
厚い雲の切れ間から、薄い明り。
月が地上へと、顔を出そうとしている…。
そして……。
百歩程歩いた所だろうか…。
彼女の手がほつれる様にして、離れた…。
翔子は軽やかにステップして、俺から距離を取ると、おもむろに振り返った。
ほっと安心したような顔つき…。
まるで殉教者のような……晴れやかさだった。
やがて紡がれる言葉。
……俺はそれを一生忘れない…。
「それじゃあ……さようなら。夜月さん……」
どこかへ遊びに出かけるような気軽さで…。
そう言った彼女の首には、いつの間にか赤い糸が巻かれていた。
「……なにを…」
「私が依頼をした、あの赤い糸。……あれは依子じゃなくて私が掛けた呪いだったみたい……」
彼女の真意を知りながら、俺はなぜか当惑した表情を作る。
たぶんは受け入れたくないからだ、彼女の決意の程を…。
「呪いだったみたいって……」
「私が自分で、自分にかけた呪い。私のほんの少しだけ残された良心が作り出した、自分を殺すための呪い……」
「……やめろ」
俺の言葉は実際、言葉になり得たのか解らないほど、うめき声に近かった。
「さよなら……」
白い項から、溢れ出す血の雫……。
俺と翔子の間を、桜花を乗せた風が渡った……。
一瞬の…錯覚。
………赤い川の流れが、眼前に現われた……。
濁濁と流れる無音の川。
彼女は彼岸にいて、俺は此岸にいる。
二人の間に吹いた風は、川面を渡った風だ。
その錯覚に、俺はそれ以上、翔子に向かって歩を進める事ができなかった。
川が遮ったのだ。
翔子は此岸から、俺を見詰めている……。
「……私だけじゃいけないもの。……私だけで行ったら……妹は泣いてしまうから、だから……連れて行く事にします……」
それが彼女の最後の言葉になった……そうして……。
………翔子の首が、飛んだ。
鮮やかに舞った彼女の血液が、月光に煌く…。
俺の身体は、一生消える事の無い、その赤で染め抜かれた……。
凛、まるで儚い少女の死を悲しむように、鈴が鳴った。