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Original Novel 遊真 Presents


真白な雪化粧が世界を彩っていた。
しん、と静まり返った冷気の沈黙は、侵してはならない厳粛なものに感じた。
嘆息にも近いため息は、やはり煌く白い息となって、後方へ流れていく…。
僕はバイクのエンジンを腹に響かせながら、この幻想的な空間で一人、異邦人であった。
直ぐに乾く瞳を何度か瞬かせると、一度は上げたゴーグルを再び掛け直す。
「寒い、よなぁ……」
静寂が耳に痛かったから、僕は結局そんな詰らない独り言で、完璧な世界を壊してやった。
前方に右折の標識。
対向車は零。
雪の山道を歩く人影なんてある筈も無く…。
確信犯めいた微笑を張り付かせながら、重心を左に深くかけた。
鋭いコーナリングで急なカーブを乱暴に曲がる。
曲がった先もやはり真っ白だった。
 
 


寂光堂短編


季冬の章

狭間の法則



フローリングの床に自分の顔がぼやぼやと映り込んでいた。
人工的な温風は生ぬるく、僕の肌には合わない。
部屋を装飾する調度品の数々も趣味が違っていた。
唯一。
室内に漂う、ほんの僅かな、甘い匂い……。
何の匂いだろうか…、どこかで嗅いだ事がある筈なのだが…、それもつい最近の…。
所在なげに視線をふらふらとさせていると、向かいに座る男と眼があった。
それで、やっと僕は己のすべき事を思い出した。
咳払いを一つ。
「娘を探してくれ……ですか?」
当惑顔で聞き直すと、鳴沢佑一(なるさわゆういち)は苦々しく頷いた。
かけている眼鏡を無意味にいじくる仕種は、うろたえた時の彼の癖であると、僕の観察結果が語っている。
釈然としないものを感じ、僕はもう少し突っ込んでみる事にした。
引っ掛かりは直ぐにでも払拭するが花である。
過去に依頼人の情報で憂き目を見た事があるから、それはなおさらなのだ。
「何か、他にあるのですか?」
あるのだろう。
佑一の目尻がぴくぴくとひくついている。
あからさまな動揺ではある、あるがしかし、僕は口をつぐむと、背凭れに背中を預けた。
鳴沢夫人にいれてもらった紅茶に手を付ける。
熱さを確かめながら一口すすった。
しぶめで、酷がある。
「娘は……」
佑一が語り始める。
僕は、ティーカップを静かに元あった場所へとおいた。
両手を組む。
「娘は……、病気なのです」
初耳だ。
たぶん僕は傍目からも、渋面の煙たそうな顔付きをしただろう。
行方不明の幼子を捜索するというだけでも難解だというのに、そこに病気というおまけまでついてきたら…。
佑一の顔を通り越して、その先の小さな窓を見る。
冬の寒空が伺えた。
葉の枯れ落ちた寂しい枝が、北風にさらされてしなっている。
ちらほら、白い結晶も舞っていた。
(生きて……いられるのか?)
もちろん、親の前でいえる言葉ではない。
だがしかし、佑一の瞳にも諦めに近い感情が見え隠れしていた。
一気に気が沈む。
こんな依頼は受けるんじゃなかったなと…。
「……それは持病という事ですか? それとも……」
「いえ…」
緩々と緩慢な動作で首を振ると、彼は深いため息をついた。
「違います」
「……別に憚れるのなら、言わなくても良いですよ」
「癌なんです」
言葉の末尾と先端がぶつかった。
震えた声は上手く聞き取れない。
今、この男はなんと…。
「あの娘は先天性ともいえるほど、産まれて早い時期から脳の腫瘍を患っていた」
今度はやけにはっきりと男は言った。
眼が違っていた。
ひどく憎いものでも見るように、何も無い一角を睨み付けている。
「鳴沢さん」
僕の呼びかけで、佑一は舞い戻った。
慌てて、視線をこちらにむける。
「不躾を承知で聞きたいのですか、それは治る見込みが…」
途中で僕は言葉を飲み込む。
聞くまでも無い。
「すみません…」
俯き加減で謝ると、佑一は右手を前に出して小さく振った。
「……いえ、お構いなく」
ああ、言葉が滑っている…。
こういう空間は嫌いだ。
だからといって二三のガキでもあるまいし、逃げる事もできない。
場を明るくする言葉を僕は知らない。
暗くする言葉なら幾等でも背水口の如く要らぬだけ吐き出せるというのに…。
「失礼します」
鳴沢夫人、鳴沢紀美(なるさわきみ)さんがドアをノックして入ってきた。
黒く長い髪を腰まで垂らした美人だ。
切れ長の瞳に、長い睫が目立つ。
玄関前であった時には気づかなかった翳りを嫌というほど感じた。
僕は自分で思っているよりも鈍感な人間なのかもしれない。
「一応、私の言うべき事は全て告げたよ。夜月さん、妻に聞いておきたい事があるのなら何でも聞いてくれ。もちろん私でも構わないが…」
空っぽな元気を取り戻して、佑一は言った。
妻の手前、一家の長が弱音を吐くわけにはいかないのだろう。
「ええ、それでは聞かせて貰います、遠慮なく」

 
 
* * * * *

 

死に逝く人は、鮮烈な輝きを生き続ける者に与える。
それは脳裏に焼き付いて、一向に色褪せる事が無く、まるで遺伝子情報を組み替えられたかと思う程の衝撃だ…。
「うおっと!」
猛スピードで坂を下りてくる車が一台、風を切って横を通りぬけていった。
路面の凍ったアスファルト。
右へ、左へ、峠独特の急カーブ。
舞い散る雪は激しくて…。
そんな悪条件の中、物好きな人間がいるものだ。
「死にたいのか、まったく…」
後ろを見ても既に、騒音の余韻だけを残して、車の姿はない。
首を左右に振ってから前方へ注意を戻した。
「……違う……か」
違うな。
死にたい、のではなく、生きたいのだろう。
生きているという実感を味わいたいのだ。
僅かな隙をついて木枯らしが吹き込んで来るように、ふと、思う。
僕が僕であるのは、人が人であるのは、夢が夢であるのはなぜであろう、と。
全てを内包する現実とは何であろう、と。
一体、人は、何によって生まれ、何によって生かされているのだろう、と。
解らない事ばかりだ。
机上の空論で説明する事ができても、浅学な知識で説明する事ができても…。
それは認識であって、実感ではない。
唯一、人が平等に実感できる現実とはなんだ?
それが……。

『死の間際に生きる事さ』

陰陽師の言葉が蘇る。
「死の間際に、生きる事か……。縁起でもない事をいうよなぁ、あの人はいつも」
口では素っ気無く流しながら、考えは滞り、ぐるぐると頭の中の同じ場所で回り出した。
それぞれが、それぞれの考えを持って人は生死を見詰めている。
跡形もなく消えてしまう恐怖に脅える事もあれば、永遠の安らぎに憧れる事もあり。
絶えまない苦しみに疲労する事もあれば、いく先にあるかもしれぬ幸福に期待する事もある。
「俺は……」
目先は速度メーターに落ちた。
八十、九十、百、百五、百十、百十五………。
加速。
おもむろに顔を上げる。
雪が飛礫となって顔面にぶつかる。
身体だけを残して、魂が加速する。
そのまま、突と立ちはだかった岩壁を前にして…。
「どうなんだろうな…」
ブレーキをかける、上半身を巧みに捌く、右足を地面につけてふんばる。
雪を蹴散らし、氷を溶かし、火花が散る。
迫り来る岩肌を、僕は左足で力いっぱい蹴った。
今度は崖側に跳ね返る。
駒のように制御を失ったバイクが回転する。
くるくると。
くるくると。
結晶を吐き出す灰色の雲も回った。
どちらの方向が崖で、どちらの方向が壁であるのか判別できない。
それでも僕はバランスを取り続けた。
やがて、ガードレールの手前で回転が止まった。
ほっと安堵のため息を吐くと、僕は、ハンドルの上に寄り掛かった。
大地を踏み締める両足が、視界に入る。
目を瞑り…。
独白。
「やっぱり、解らないな…」
試してみても解らない。

 
 
* * * * *

 
 
自動扉が僅かに軋んだ音を立て開いた。
僕は背中へ吹き付ける冷たい風に追い立てられる様、院内へと一歩、踏み込んだ。
十二月二十六日。
クリスマスの名残か、受付ロビーの一角には、飾りが取り去られたモミの木がぼつねんとある。
それを横目でやり過ごして、木製のカウンターに肘を乗せた。
窓口の女性に声をかける。
「あの…」
「こちらに、お名前をどうぞ……」
用件を遮るかの如く事務的に渡された赤色の板に書かれた名前に一通り眼を通してから、僕は頭を掻いた。
「いえ、僕は、そういうのじゃなくてですね……」
「順番までお待ちください」
勝ち気そうな瞳で、僕の肩口を見る。
その視線を追って振り返ると、待ち合いの椅子には空きがないほどの人が座っていた。
肩を竦めて苦笑するしかない。
「柚木医師に面会を求めたいんですよ、私用でね」
「……患者、ではないのですか?」
「生憎、医者要らずの健康体です」
小窓から少しばかり頭を出すと、彼女は頭から足の爪先までを観察する。
視線がかちあった所で、にこっと笑ってやった。
控えの名簿を手渡す。
「……柚木先生なら、今頃、小児科の二番診察室にいると思いますけど…」
「というと……?」
「二階の、東棟ですね。当病院は西棟全部、東棟四階以降は患者さんの病棟となっていますから」
それではほとんどが入院施設という事じゃなかろうか。
「へぇ…、そんなに入院する人って多いんですか」
何気なく云った言葉に彼女はいたく反応した。
「多いんですよ。病室はこれでもまだ足りないぐらいですから。空きの病室を探して、他の病院と連絡を取り合う事もしばしばです」
「由美さん」
後方のデスクから声が飛んだ。
いつまでも話し込んでいるな、という暗黙のお咎めだろう。
ふいに、由美と呼ばれた女性は、あたふたとしだす。
「ああ、すいません。時間を取らせました、それじゃあ」
一礼をして僕は、受付を離れた。
棟と棟の連絡通路を、ロビーに張られたプレートで確認した。

 

形だけのため息が、空っぽの室内に漂う…。
暖房の効いていない部屋は身震いするほどに寒いが、風がないだけましである。
そして僕は断然、この手の部屋の方が落ち着くのだ。
人工的な生ぬるい風は、気味が悪い。
たゆたう羊水の中に漬かっているようで、気に入らない。
安穏とした穏やかな空間は、まるで生という世界へ飛び立たない様に作られた檻のようだ。
「どこへ……、いってしまったんだろう、あの娘は…」
柚木医師は沈痛な面持ちで、窓際に立ち尽くしている。
僕は、部屋の入り口に寄さりかかって、その陰鬱な顔を眺めていた。
「心当たりはないんですか?」
僕の質問に力無く彼は横に首を振る。
その動作一つ一つが、なんだが演技臭くて、鼻に付いた。
「どんな、些細な事でもいいんですけどね…」
語尾をやや皮肉ったイントネーションで伸ばす。
不快を表に出してしまうとは、僕もまだ修行が足りない。
「些細な事といっても……」
それっきり話が途絶える。
腕の時計に視線を這わした。
十分という僅かな暇を貰ったこちらとしては、有意義に使いたいものだ。
沈黙などという情緒は、何の役にも立ちはしない。
質問を変えてみるべきか…。
「繭璃(まゆり)ちゃんの容体は、どの程度だったのですか? まあ、今日、明日に危ないというわけでは、ないでしょうけど。こんな言い方はいけないのかもしれないが、タイムリミットを想定したいもので」
遺体と対面なんて状況は御免こうむりたい。
枯れ果てた内庭を眺めていた柚木が顔だけをこちらに向けた
眉が吊り上っている。
「馬鹿な事をっ!君の言い種は、闘病を続ける者達全てにおいて無礼だぞ。彼女は二日後には渡米をして優秀な脳外科医の下、手術を受ける筈だったのだ。その摘出手術さえ上手く行えれば、必ず……」
僕は、柚木の瞳から眼を逸らさずに見据えた。
生きる事が尊い事だと、正義だと思う輩は多い。
だけど、それならば死に逝く事を望む者や、死んでいかなければならない者はどうなのだろうか。
悪なのだろうか?
下劣なのか?
臆病者なのか?
そんな差違はない筈だ。
だが、しかし。
「軽率な言動でした、謝ります」
僕は表面を取り繕った。
水掛け論議をしに、ここへ来たわけではない。
「私に謝られてもねっ、…しょうがないんだよ」
彼の憤りは中々納まらない。
僕は部屋の中央まで歩み寄った。
寝台が一つ置いてある。
その傍らには、医師から特別許され、家より取り寄せた学習机が鎮座していた。
奇麗に片づけられた机の上には。
新品の赤いランドセル。
鮮やかなピンク色の、茎の長い花。
……花。
僕は、それを手にとってみた。
花瓶の中にあるべき水は乾ききり、そして、その花もまた……。
くしゃり、と。
簡単に形が崩れる。
更に力を篭めると完全に破壊され、粉々になって塵と化した。
ほのかに、閉じ込められていた匂いが、鼻孔をくすぐる。
この匂いは、どこかで嗅いだ事がある。
一日前は。
鳴沢繭璃の家のそこかしこで…。
数日前は。
………解らない、どこだったけっか…。
「毎日、繭璃ちゃんのお母さんが、かえていた花ですよ」
いつのまにか、柚木が側まで来ていた。
先程までの興奮は納まっている。
むしろ、大人げ無い事をしたとでも思いたったのか、罰の悪そうな笑みを浮べていた。
「……名は、なんて?」
柚木は首を傾げる。
「……さあ。 私は医学の事しかしらない、朴念仁ですからね。洒落た趣味は持ちあわせていない」
「僕もですよ」
花いじりなんて、和やかなものは僕には似合わない。
「意見が合いましたね」
「ええ、でも、あまり喜べないなあ」
苦笑を浮べる、柚木。
だが、僕は笑えなかった。
この花はなんだろう。
朽ちて、粉々に砕いてしまえば、原形を無くしてしまえば…。
後はもう記憶の中でしか残らない。
この花はなんだろう。
名を調べる機会などないだろうから、僕の中では花という総称しかつきはしない。
…………。
死とはそういう事か…。
「ああ、そろそろ回診の時間だ、いかなくては。お役に立てなくてすみませんね、夜月さん」
「いえ……」
白衣の裾を翻して、颯爽と柚木は部屋を出て行く……と。
足が止まった。
何かに思いついたように、難しい顔をして振りかえる。
「そういえば……」
「どうか、しましたか?」
「夜月さん、あの山、ご存知ですか?」
柚木が、僕の眉間を指す…否、僅かにずれて、それは窓の外を指していた。
追った先には……。
山。
山だ。
連なる山。
その中で、頭一つ抜きんでている山を、柚木は指差す。
「その山がどうしたんです?」
「繭璃ちゃん、あの山の事が非常に気になっていたんですよ。回診に来ると、十中八九、遠い眼をして、あれを眺めていましたからね」


 
* * * * *

 
 
おしゃかになったバイクをガードレール傍に置いて、僕はジャンパーのポケットに両手を入れた。
空はむらなく灰色だった。
それが雲なのか、空なのか解らない一色塗りの灰色。
雪の螺旋が地表を埋め尽くすのも、そんなに長い時間ではないだろう…。
先を、急ごう。
氷を削りながら、僕は歩き始めた。
―――― ガッガッガッガッ
直ぐさま額に汗が浮きはじめる…。
数十分歩くと、車道から山道へと入る脇道を見つけた。
褪せて、ぼろぼろになった縦看板には…、展望台まで二キロとしたためられている。
迷わずそちらへと、僕は入り込んだ。
途端に、薄闇が覆い被さってくる。
かさかさと、葉の上に雪が乗る音が幾重にも重なって、頭上から降りてくる。
時折、重みに耐えられなくなった枝から落ちる塊の音が、どさり。
道は段になっている筈なのだが、雪でただの急な斜面に成り果てていた。
腰に手を置き、闇に閉ざされた前方を睨んでから、僕は歩みを再開した。
―――― ザッザッザッザッ
ぼろぼろと崩れ去る雪道が、足元を何度もとる。
―――― ザッザッザッザッ
斜面はだんだんと勾配がきつくなっていく。
「あ〜あ……」
なぜ僕は、こんな日の、こんな所で、こんな事をしているのだろうか。
もっとも、自分でも解らない事というのは、良くある事だ。
意志というものが己の主張のようなものならば、人はほとほと自分の主張に従わない生き物らしい。
したくない事をして、したい事をしないようにできているらしい。
矛盾といえる。
そんな風に有限な時を費やして楽しい事などあるのだろうか?
したくない事をして生き続けるのが、美徳なのだろうか?
したい事をして、死んでしまったらそれは……。
「ぐはっ」
こけた。
思いっきりこけた。
顔面から諸に地面に倒れ込む。
幸い雪がクッションになったからよかったものを、僕は雪に顔を突っ込んだ体勢で、数メートル、斜面を滑り落ちた。
無様このうえない。
「常套だよ、このっ」
口の悪さが相棒に似てきた感がある。
雪をぺっと吐き出して、僕は、大義そうに立ち上がった。
真っ直ぐに伸びた顔の跡を苦々しく眺めて。
再び僕は歩き出す。
したくなくても、しなくては、したいことが見えないかもしれない……。

 
 
* * * *


 
真冬の屋上はとびきりに寒い。
凍てつく風が容赦なく頬を打つ。
靡く髪を抑えながら、そういえば最近、髪を切っていないなと他愛の無い事に思い至った。
「寒風吹きすさぶって感じだな、ほんとうに…」
両肩を抱きながら、僕は手摺のあるところまで前へ出た。
さすがに六階建ての屋上は景観が良い。
氷の如き鉄の手摺に手を置くと、上体を乗り出す。
高台の上に建てられている事もあり、他に遮る建造物は皆無だ。
ぐるりと三百六十度とまではいかないが、二百度くらいの展望。
下界には所狭しと隙間なく埋め尽くされた民家の屋根が色とりどりに見える。
そして、その向こう……。
「……山、ね……」
至正山(しせいやま)。
標高にして六百メートル弱。
柚木の話によれば、決して幼い繭璃が興味をそそられるような山ではないという事だ。
目を見張る絶景場所があるわけでもなし、富士の山のように貫禄があるわけでもなし。
……ただ唯一、誰も奉る事のなくなったぼろぼろの社が中腹当たりにあるという…。
「なんだね、また来たのかね、お嬢ちゃん…」
お嬢…?
背後からかけられた嗄れ声。
僕は前髪を押さえつけながら、後ろを振り返った。
腰よりも低い位置に、面相が到底判別できないほど皺に覆われた老人の顔があった。
白眉を幾分垂れさせている事から、笑っているんだなと気づく。
「……お爺さん、一体どうしたんです? こんな場所に……」
ここは、どう考えてもよぼよぼな老人が来る場所ではない。
何より、車椅子に乗っているのだから階段を上る事は不可能だろう。
看護婦か、親類か、誰か付き人がいる筈なのだが…。
きょろきょろと殺伐とした屋上を見回したが。
いない。
誰もいない。
あるのは、北風に晒された僕達二人と、右隅に鎮座した給水塔、地面に張り付いた換気口……。
「また、あの山を見ているのかい。ありゃあ、そんなに気に入ったのかい、嬉しいねえ……」
僕は困惑の表情を浮べた。
どうもこの老人は僕を誰かと、とり間違えているようだ。
「あのですね…、僕は……」
「至正山」
「え?」
皺に埋もれた細い瞳をいっそう細くして、老人は上空を仰いだ。
「至正山を見ていたんだろう、お嬢ちゃん」
偶然だろうか…。
老人の漏らした"至正山"のワードに僕は興味を覚える。
「………ええ」
だから、そう返答した。
そして、続けて問うてみる。
「あの山、どんな山でしたっけ?」
老人は首をかしげると、車椅子から乗り出すかのように、僕の方へ顔を近づけた。
おや?と疑問の声をあげる。
「前に……話さんかったかなぁ……、至正の山ん神様の言い伝えを?」
僕は、なるたけ平静をよそおい、はい、と済まし面で答えてやった。
ここまでの会話で、この老人が相当もうろくしている事は明白だ。
もしかしたら痴呆症を患って、ここに入院している人なのかもしれない。
病人を騙すという行為には、特に罪悪感は覚えなかった。
「あの中腹辺りにある神社の祭神様ですか」
「おお、そうだ、そうだ、知っておるじゃないか」
「でも、言い伝えはお爺さんから聞いていませんよ……、面白そうですね、少し教えてくれませんか?」
僕が頼むと、老人はうんうんと何度も頷いて、笑った。
「いいともっ、頼まなくても話してやるよ、他ならぬお嬢ちゃんの頼みじゃからな」
…………支離滅裂な言動に、つっこむのは止めておく。
どこまでもこじれそうで怖い。
「お願いします」
老人は芝居かかった咳を一つすると、眼を見開いた。
思っていたよりも、その瞳には力が篭められている。
「昔、昔のことじゃ、お嬢ちゃんはもちろん、わしだって、その爺さんも、そのまた爺さんも産まれておらぬ昔じゃ」
お決まりの文句で語りを始めると、老人のしわがれた声は生き生きとしたものに変わった。
「年代にするとどのくらいですか?」
「その時分、この当たりはまだまだ村らしきものさえ無くてな、青々とした森が広がっていた。時々、もう一つ向こうの峠を越えた所から、猟師や樵が訪れるくらいしか人の気配は無い」
僕の問いかけは見事に無視された。
完全に己の世界へ行ってしまっている。
肩を軽くすめて、僕は手摺に背を凭れ掛けた。
大人しく聞き手に回るしかないようだ。
強かった風も幾分静まり、少しは居心地のよくなった屋上に、灰色の雲の切れ間から日が射し込んだ。
みるみると明るくなる。
老人の話は中々本題に入らず、当時の生活風土がくどいほどに語られていった…。
いい加減欠伸の一つでもしたくなった頃、話が展開をみせ始めた。
「………でな、驚く事にな、この森には、とんでもなく大きな巨人が住んでおったんだよ」
巨人…?
ダイダラボウシのようなものだろうか…。
僕は、手摺から背を離すと、前屈みになった。
老人と面を合わせる。
既に四五十分、口を動かし続けているにもかかわらず、老人の舌はなめらかに動く、一点の淀みもない。
何度も、何度も、復唱してきた語りなのだろう。
「……ダイダラボウシのようなものですか?」
はじめて質問に反応した老人は首を大袈裟に振った。
「いいやっ!あんな、なま優しいものじゃない。喩えるんなら、巨大な人の形をした肉食獣とでもいうのかの」
「……食べるんですか?」
「おお、食べる食べる。なんでも食べるぞ、巨木も、土も、湖の水も、森の動物達も、それから……」
唐突に、びしりと節くれだった指が僕の眼前に突き出された。
「人も?」
出した指を引っ込めつつ、満足げに老人は頷く。
「そうそう、人も。ばりばり、むしゃむしゃ、もぐもぐとな、際限なく食い続ける。際限が無いんだ、満腹という感覚をこの巨人は持ちあわせていない。いつまでも空腹だから、こりゃ際限が無いんだ、恐ろしいぞ」
口元に両手を掻き込む仕種で、それを表現する。
僕は口をへの字にした。
「いやだな…、それは……」
ひどくあさましい…。
それでは、僕達人間と同じではないか…。
いつまでも満ち足りない飢餓を抱えて、悶え続ける、他者を蹴落とす、いない方がいいのに生き続ける…。
老人は人の形をした肉食獣と揶揄したが、僕ならその巨人を、ただ人がでかくなったと言いたい。
「それで、困った人達はどうしたんですか? 巨人退治ですか? 逸話のお得い、弘法大師様のご登場かな……って時代が違うか…」
老人は、歯の所々抜けた口で息を漏らして笑った。
「と結びたい所じゃが、違う。人々は、巨人と語らったのよ」
「まさか…。会えば直ぐに食べられてしまうんでしょう」
「それが、そうでもない。そのときにはもう、巨人は飽いていたのじゃよ、ただただ自分以外の生命を食べる事に、屠り続ける事にな……。考える脳でも成長したのかの、生意気にもこう思い始めた。"なぜわしはこんなに腹が減るのだろう"とな」
それは胃も巨人クラスだからだろう、と言いそうになって止める。
そんな物理的な答えを求めているわけでもなさそうだ、その巨人とやらは…。
もっと別の…。
例えば、僕が常に考えて考えて導き出せない答えと同種の…。
「人々は言ったよ。それは生を知らないからだ、とな」

生をしらないから?

「……それは……どういう……」
「巨人は云った、それはどういう事だ、と」
そこで始めて老人は一方的な会話をひと区切りさせた。
何をするのかと思えば、車椅子の肘掛けに両手をのせて、立ち上がろうとする。
僕はその意図を汲み取って、肩を支えてやった。
「ありがとうな、座ったままでは、よく見えんのじゃ、あの山が……」
よろけながら歩いて、手摺に全体重を預ける様にする。
僕はいつ倒れるかひやひやしたが、結局大丈夫と判断して、老人の横に立った。
座っていると小さかったが、立っても更に小さい。
矛盾なようで、それが真実に思える。
風が再び強く吹き始めた。
「寒いの……」
寒い。
身体の芯から寒い。
それはもう何年も前から変わらない。
いつかは、暖かくなることがあるのだろうか?
僕の中の巨人が問うた。
解らぬ、と僕は云う。
「……お爺さん、それで、人はなんて答えたんですか? その巨人に対して…」
急かす。
だがしかし流暢だった筈の老人は、霞む至正山を懐かしそうに眺めて、黙ったままだ。
「お爺さんっ!」
「お若いの…」
ぎくりとした。
ゆっくりとこちらへ首を巡らした顔は、完全に正気だった。
老兵の瞳が僕の瞳を射抜く。
「知りたいのなら……」
腕がまっすぐ伸びる。
ぴたりと静止した場所は…。

「あの山を登るのじゃ…」

「至正山を、ですか?」
「そう。口ではの、何とでも言えるからの、駄目なんじゃ。登るのじゃ、登れば、巨人が答えてくれるからの」
「それじゃあ、巨人が、もしかして至正山の祭神なんですか?」
疲れた、と息を吐き出して、老人は車椅子に戻った。
先程と同じく、肩を支えてやる。
「至正とは、死生。正道に至るは、死と生を見極めよという意味じゃ…。死の呼ぶ神と恐れられたその巨人は人に諭され、生を重んじる山となった、生を産み出す山となった。…そういう事じゃ…」
山そのものが御神体なのか…。
「美濃部さんっ」
僕と老人の世界に、邪魔が割って入った。
白衣姿の若い看護婦が、昇降口から走り寄ってくる。
「駄目じゃないですかっ、勝手に院内を動き回ったら」
まるで幼子に言い聞かせるような物言いだ。
「おお、あんた誰じゃったかなぁ…」
老人の声が一気に老け込んで聞こえた、否、年齢相応に戻ったというものか。
しわがれて、覇気がない。
「あなたの担当の南ですよ、忘れちゃったんですか?」
「担当? 何の事じゃ、わしはなんでこんな所にいるんじゃ。うぅ…寒い、寒いぞ…」
「当たり前ですっ!身体壊しちゃいますよ、こんな所にいたらっ!!」
「寒い、寒い、寒い、小便がしたい…」
あまりのギャップに僕は顔をしかめる。
老人の醜態は、見ていられるものではなかった。
看護婦は、小便、小便と連呼し続ける老人をなだめながら、僕を睨んだ。
「困ります、患者さんを勝手に連れ回さないでくれます?」
「それは……」
誤解、という言葉を待たずに、看護婦は老人の車椅子を引いて屋上を降りようとしている。
慌てて僕は呼び止めた。
「すいません、一寸っ!」
看護婦が振り返る。
老人は振り向かない。
「まだ、何か?」
「……その老人は…」
「美濃部さんのこと?」
「美濃部さんは一体どんな……」
風で飛ばされそうになるナースキャップを抑えながら、こともなげに看護婦は云った。
「至…なんとか言う神社の神主様ですよ。もっとも身寄りはもう、娘婿しかいないようですから…血縁は途絶えたみたいなんですけど…」
唖然とする僕を残して二人の姿は扉の向こうに消えた。
ごうっと、一際激しい風がまたあの匂いを運んだ。
ひそやかな甘い匂い…。
花の匂い…。
どこから香ってくるのだろう……。


 
* * * *

 
 
「至生山、巨人の山。生と死を求道する山、か……。なんだかできすぎているな……」
鬱々とした気分は山に入る前からずっと感じていた。
バイクで入山すると更にその陰気さは膨れ上がり、まるでそう、これは…。
「結界みたいだ……」
異分子を排除しようとする囲いのようだ。
僕のような迷い人をいれる寛容さを、巨人は持ちあわせていないのか…。
時折、本気でそう考えては、ありえないと首を振る。
全ては作り話に決まっている。
美濃部神主の話は、参拝者を募るための逸話であろう。
誰も知らない昔の話だからといって、山のような巨人はない。
僕にだって現実的にありえるかどうかの判断はつく。

『自分で自分を束縛している内は俺には到底及ばんよ。現実は全てを内包するのだから考えるだけ無駄だ』

……。
また。
まただ。
僕は両足を膝まで雪に飲み込ませて立ち止まった。
「うるさいな、鷹志さん……」
鷹志さんの声が頭の中で鳴り響く。
あの人はこの場にいなくとも、いつかは越えねばならぬ呪いとして僕をさい悩ます。
「現実は全てを内包するだって?」
ずぼ、乱暴に右足を引き抜く。
「何も考えるなだってっ」
ずぼ、乱暴に左足を引く抜く。
ずぼ、ずぼ、ずぼ、ずぼ、ずぼ。
その繰り返しだ。
「だったら、俺はただぼうっとして生きてればいいっていうのか!!」
高ぶりにまかせて、手の届く範囲の幹を拳でなぐった。
鈍い音と共に。
「ふはっ!」
充実した枝振りを見せる杉の木から、満載の雪が降ってきた。
見事に頭へ命中。
たまらず、前のめりに倒れ込んだ。
今日で何度目か解らぬ醜態である。
「……こんなものかな…」
白雪の布団にうつ伏せで寝転んだまま、僕は呟いた。
ごろりと仰向けになる。
天を突く、木々。
その間から絶え間なく、降り続ける白いもの…。
「鷹志さんの言う通り、僕が何を考えた所で、上手いようにはいかないのかな……」
しばしの休息。
背中からじわじわと浸透する冷たさも、心地よい。
目を瞑ると、木立の間を吹き抜けて渡る風を感じる事が出来る。
雪の重みできしむ幹。
頬に落ちる氷。
自然だ。
どれも生命の息吹。
僕の息吹は、どこだろう……、と。
「ん?」
遠くからバタバタと聞こえる、あきらかに不自然な物音。
沈み込む雪に悪戦苦闘しながら、身体を起こした。
道の先から聞こえてくる。
ゆっくりとした足取りで、音に近づいていった。
そうして、数分もしないで、それは僕の目の前に現われた。
赤色が剥げ落ちている分、余計に雪化粧をほどこされたみたいな白銀の鳥居。
黒く朽ちた壁板は、ところどころ崩れて大きな穴があいている。
社の全体を覆う、青緑色の苔。
瓦解寸前といった様相の、神社。
たぶん、これが…。
「至正神社か。こんなぼろぼろでよく今迄持ったもんだ…」
ここに、あの老人は一人で住んでいたのだろうか?
こんな所で、あの老人は何を考えていたのだろうか?
あの娘は、鳴沢繭璃はここにはいないのだろうか?
多くの思いが去来したが、全て押し込んだ。
口を一文字に引き締める。
鳥居をくぐり、注意深く、きしむ階段を登って向拝(ごうはい)に至ると、バタバタと鳴り続ける騒音の正体が掴めた。
鍵は閉められているが、蝶番の壊れたドアが風に吹かれて、開閉を繰り返しているのだ。
開いた所をタイミングよく狙い、右足で支え止める。
そのまま上体だけを前にだして、暗い社内を覗いた。
僕になら、この程度の暗がりは暗視できる。
狭い社内は見事に空だった。
繭璃どころか、畳一つもない。
がらんと、空虚だ。
意味をなさなくなった社。
死んだ、社。
みしり、と。
天井が軋む音を立てる。
それと同時に背後で、どさどさ、と盛大な物音が聞こえた。
屋根に降り積もった雪が、何かの拍子で落ちたのだろう。
僕は、特にそれ以上するべき事もなかったから、音のした後方へ首をめぐらした。
「あっ」
間抜けな声が上がる。
僕の声だ。
それから……。
「あ」
もう一つ、小さく高い声が、森の中に木霊した。

少女の声。

僕が通った鳥居の下に、今、少女がちょこんと立っている。
小さな、小さな身体がこちらを向いて固まっている。
先日、院内で見かけたのと同じ白い患者服を着て、華奢な肩にストールを掛けて…。
透き通るような白い肌の中、頬だけを赤く上気させて…。
大きな輝く瞳を一杯に広げて…。
まさかこんな場所に、本当に…。
「繭璃……ちゃん?」
確認の声に、びくりと身体全体が震えるのが解った。
「わっ、わっ」
驚きの声を上げて、少女は踵を返した。
たたたっ、と駆け出す。
小さな背中が遠ざかっていく。
「あ、こらっ」
慌てて追いかけようとして、扉を支えていた足を抜くと、案の定、顔面に向けて扉が迫った。
「うわっ! …い痛つつ……」
派手に衝突しつつも、赤くなった鼻をさすりながら僕は再び雪の世界に飛び降りた。
ずぼん、と腰までめり込んだ身体を引き出して、僕は鳴沢繭璃らしき少女の後を追う。
ほのかな甘い匂い……。
とんがった冷気の漂う空間に、それは流れている。
スターチスの花の匂いだ。
「間違いない」
あれは繭璃だ。


 
* * * *


 
屋上の寒さに首を竦めて。
再び、鳴沢繭璃の病室に戻ってみると、静かだと思われた室内は慌ただしい喧燥に包まれているようだった。
どたどたと、中から荒々しく床を踏みしめる音が聞こえる。
「おっとっと、危ないなぁ、兄さん」
僕がドアノブを引こうとするより早くドアが乱暴に開いて、青色の制服を着込んだいかつい中年が二人、繭璃の勉強机を持ってドアから出てきた。
横へ避けてそれをやり過ごしてから室内に入った。
「……これは……」
中へ入って驚いた。
繭璃専用の個室であった筈のそこは、中央に小さなベッドが置かれるだけの、寂しい部屋に成り果てていたのだ。
どちらに視線を泳がしても、先程持ち出された勉強机はもちろん、簡易テーブル、そこに並んでいた人形、と全てが無くなっている。
部屋の片隅に…。
「ああ、布椎さん」
鳴沢紀美がしゃがみこんでいた。
僕を見つけると、疲れた微笑みを浮べて、スカートの裾を払い、立ち上がる、会釈をした。
手には箒と、ちりとりを携えている。
「……どういうことですか、これは?」
伏し目がちで、紀美が云った。
「どうって……こういう事ですよ?」
答えになっていない。
それどころか、さっさと僕に背中を見せて、箒を動かし始めた。
埃も塵もたいしてでないが、僕が潰した花の破片が彼女の足元へ集まっていく。
「病室をかえるのですか?」
紀美さんは無視を決め込む。
口元に、彫像のような冷えた笑いをはりつかせて、黙々と部屋を掃いていた。
……本当に、どうしたというのだろうか?
繭璃ちゃんの持ち物全てを持ち出し、丹念に掃除をして、まるで、そこには何もなかったような空間を作ろうとする紀美さん。
何かおかしい。
彼女の行動は、何かおかしい。
これでは、まるで繭璃ちゃんの居場所自体を無くそうと…。
繭璃ちゃんの存在自体を無くそうと…。
……無くす?
「……紀美さん、あなたは……」
その考えに思い当たり、僕は息を呑んだ。
そんな事はありえる筈が無い、と思った。
だが、それが一番しっくりとくる。
昨日あった時の憔悴の濃さに比べて、今日の彼女はあまりに明るすぎた。
それが偽りだとしても…。
「諦めてしまったんですか?」
だから僕は、真芯からそう尋ねていた。
一歩、二歩と詰め寄る。
それは憤りだったのかもしれない。
だが、僕の高まる感情に対して、彼女はひどく冷静だった、どうしてだと不思議な程に。
箒で身体を支えながら、こちらを振り向く。
傾きかけた黄昏の光が、紀美さんの影を濃くしていた。
それが彼女の抱えた闇の増殖分だと思った。
「諦めた? 何をです」
「……繭璃ちゃんの事を、です。どうして病室を出て行くんですか? 繭璃ちゃんが見つかっても、病気は治っているわけではないんですよ。ここで治さなければ、もしそれが駄目でも海外にでも行って……」
「本当にそう思っているんですか?」
僕のありふれた言葉を、簡単に彼女は遮る。
「本当に、そんな楽天的な見方が、布椎さんにはできるんですか? あの娘が日に日に憔悴していく姿を見て、何度も何度も死の淵でさ迷い続けるのを見て、それでも、あなたはそんな風に思えるの?」
「……紀美さん…」
少しだけ、紀美さんの言葉が熱を帯びる。
手にした箒は堅く握られていた。
「娘は…………、自分では食事を取る事もできません。いいえ食べたいのに、身体が受け付けないんです。歩く事も、喋る事も億劫になって、陸に揚げられた魚みたいに、ぼうっとする事が多くなって、悲惨な程やつれて、ただただ生きていく事、それだけのために生きていた娘なんです。昨日も生きていた、今日も生きていた、明日も生きていたならいいな、そんなものなんですよ? あなた達若い子が見るような奇麗な物語なんて、そこにはないんですよ? あるのは絶対の死に対する恐怖と、なんとか拾う事のできた生に対する安堵、それだけ」
ほうっと、怒りや憎しみや悲しみや、そんな全ての負なる感情がため息となって、宙に浮く。
「………それでも可能性があるのなら、それにかけるしかないでしょう。死んでしまえば、それまでじゃないですか。簡単に諦めるわけにはいかない。例え辛くても、その先に幸せがあるかもしれない」
僕は何を言っているんだ?
看病疲れで精神に失調をきたした女性にカウンセリングでも施すつもりなのだろうか?
所詮は蚊帳の外から見るだけしかできない存在であるというのに。
深入りする勇気も無いのに。
滑稽だ。
「生にしがみ付くのが、美しいと誰が決めたの?」
その台詞に僕は、息を呑んだ。
己の迷いをずばり、突き付けられたような気がした。
紀美さんは続ける。
「死ぬ事は醜いの? なんでもかんでも生きていれば良いのかしら。だったら生まれながらに死の匂いを背負って産まれたあの娘は、罪人とでも?生んだ私はもっと…」
次第に声高になっていく彼女。
紅い空が紀美の色素薄い毛に反射して、助勢するかのように燃える。
「あなたの言っている事は、観点がずれていますよ。何も皆がただ死ぬなと云うわけではないでしょ。彼等は、辛くとも、それが本意でなければ逃げるなと言っているのじゃありませんか」
くすくすと彼女は笑った。
マニュアルにでも書かれていそうな答えに、馬鹿らしくて笑ったのか、そうでないのかは解らない…ただ。
僕は、心の内で馬鹿らしくて笑っている。
はなから上っ面をすべった軽い言葉であると自覚している。
こんな言葉は、こう言われてしまえば、簡単に自重で自壊してしまうのだ。
僕は、彼女の顔を真っ向から見られなくなった。
俯く。
「本心が死にたい、と叫んだらどうなのですか?」
そうだ。
その通りだ。
世の中には、死にたい奴も伍萬といるのだ。
死に憧れを持つ輩は多い。
この、鳴沢紀美という女にもそんな匂いを感じる。
「先に何かがあるなんて、どうでもいい。とにかく今死にたいと思ったらどうなのです?それを止める事があなたにはできるんですか?」
「………それが自分にとって大事な人であるならば、生きていて欲しい」
「利己ですよ」
重たい空気にあがらいながら、僕はやっと顔を上げた。
「…あなたのも利己だ」
繭璃を死なせておくのが最良と思うのは、この女性の勝手な思い込みではないか。
そんなものは許せない。
紀美の意見はもちろん、僕の意見だって尽く間違っている。
生か、死か、誰もが持つ究極的な選択権。
それは、それを執行する自分自身で決めなければ……。
「見てください」
紀美が視線を落す。
その先には、名も知らぬあの花の断片がある。
「この花の名前、スターチスっていうんですよ、奇麗でしょう?」
話が突然飛んでしまったかのように思えて僕は眉根を寄せた。
「……スターチス?」
彼女はその場にしゃがみこむと、花弁の一枚を手にとって、斜陽に透かせてみせた。
一枚は小指の爪ほどもない。
「……この花、変わっているんです。切り花にしたところで、何箇月も枯れずに生き続ける、とっても生命力が強い花なんですよ。でも…」
「でも?」
僕が相槌を打つと彼女は、手にした花弁をふっと吹いた。
ひらひらと緩やかに落下する…。
「でもそれとは別に、水を一切やらないと、あっという間に乾燥、ドライフラワーになってしまうんです。解ります? 生命力がとても強いようで、一寸手を加えるとあっけなく死んでしまう。だけどそれは醜い死ではなくて形はまったくそのままの、美しい死」
うっとりとした紀美の表情にぞっとした。
この女性は間違いなく、狂いの境地にいる。
「花言葉は、永久不変。ねぇ、似ているでしょう、繭璃ちゃんに。繭璃ちゃんは死ぬ事もなく、私達の前から消えたの。繭璃ちゃんは奇麗なまま私の心の中で生き続けるわ」
馬鹿な。
そんなものは奇麗と呼ばない。
形あるものがいつしか風化してしまうように、記憶なんてものは時が経てば色褪せてしまう。
なによりも決定的なものが、その枯れた花には足りないじゃないか。
あの…。
甘く…。
どこか懐かしい…。
匂い。
その匂いがまったく無いではないか、その見せ掛けの花にはっ!
「紀美っ!!」
どんっと室内が揺れた、蹴破る様にして、ドアが開いた。
鬼の形相をした鳴沢佑一が、僕を突き飛ばし、一気に紀美へ詰め寄った。
勢いは止まらず、彼女は壁に押しつけられる。
「病室を解約したなっ!お前は一体、何を考えているんだっ!!勝手な事をするんじゃないと、あれほど言っただろうっ!」
何もない部屋に、その怒声は良く響いた。
「だ、だって繭璃ちゃんはもう死んだのよ、あなた」
「繭璃はまだ生きているんだっ、死んだと思っているのはお前だけだ、狂った事を口にするんじゃないっ!!!」
「違うっつ!!」
紀美も負けてはいなかった。
嫌、鬼気迫る表情なら、彼女の方が上かもしれない。
大きな瞳を更に広げて、白目の部分には毛細血管がくっきりと浮き上がっている。
頬は引き攣り、結ってあった筈の髪がほどけて乱れた。
「私は狂ってないっ!!狂ってないっ!!狂ってない!!あなたこそ狂っているのよっ!!!もういなくなった娘を、いつまでもいるなんていわないでよっ!!!」
気分が悪くなる。
繭璃という女児を育んだ家庭に、これほど大きな"ずれ"が潜んでいたというのか…。
………。
繭璃という女の子は何なのだろう……。
生きて欲しいと願う父親と…。
死んで欲しいと願う母親と…。
そんな二人の間で板挟みになった繭璃は一体何を思ったのだろうか。
そして少女の病魔は、そんな事などお構いなしに、脳を秒刻みで食いつぶそうと迫る。
「……まったく……、勝手にして欲しいな……」
僕は孤独に呟くと、二言三言呪詛を吐く、結びに紀美と佑一の真名(まな)を響かせた。
簡単な睡魔を呼び寄せる言霊だ。
傷付け合いにも発展しかねない醜い争いが止まる。
床の上に二人は崩れ落ちた。
それを見下ろしながら、僕は云った。
「僕は、あなた達の思うどちらの娘も探しはしない。繭璃ちゃんの思う少女を探します。それが一番の近道だと思うから」

 

* * * *

 
 
『繭璃ちゃんの思う少女を探します』

スターチスの香りを追って……。
張り出した小枝を潜り抜け、雪の深く積もった地に足跡を作って斜面を登っていく。
空を仰げば、僕を中心に置いて、枯木の森がぐるぐると回っていた。
雪は止まない。
白一色の大地に塗り込められて、僕もまた白の住人と化していた。
巨人の魅せる幻想世界を横切る。
生死の境界を渡る。
少女の小さな背が、大きな幹の向こうに隠れた。
「繭璃ちゃんっ!」
歩速をあげる。
絶対にあの娘を見失ってはいけない。
見失ってしまったら、僕もまた己を見失ってしまう。
そうして、門柱の如く二本並んだ巨木を抜けた先には…。
「!?」
僕は息を呑んだ。
身体が硬直する。
足元の踏み固められた雪が、ぼろぼろと何も無い中空に向かって投げ出される。
堅い岩肌にぶつかって、幾つにも砕けて、さらに下へと下へと……転がる落ちる。
「ここは……」
僕は切り立った崖の端に立っていた。
目の眩むような高さ。
眼下には、起立した原生林が群がり、森をなしている。
濃い緑と、それにかぶさる白い綿。
緩々と時を惜しんで落下する結晶が、遮るものの無い視界の中、一杯に広がっていた。
無意識の内に、僕は数歩後退して、その絶景から遠ざかった。
怖い。
この世のものとは思えない神秘な光景だった。
粛々として、静謐を湛える森は、死を抱えた安らぎの大地に…。
そこに飛来する白は、多くの人の生命を燃やし尽くした灰の雨に思えた。
ここが、生から死への終着点だ。
馬鹿な考えは、どこまでも膨れて、胸の内で破裂しそうになる。
破裂してしまえば、僕はこの踏みしめた地を蹴って、崖下へ飛び降りおりてしまいかねない。
巨人の眺める景色を、唯人が誤まって見てしまえば、誘われ、魅了され……。
死ぬ。
それが怖いのだ。

「…また、会ったねお兄ちゃん」

前方の魔力から引き剥がすように、後方からあの娘の声がかけられた。
凍った冬の空気に透き通る、幼さを残した声音。
ああ、何も変わっていない。
……あの時のままだ。
僕は、その僅かな時をかみしめるように、ゆっくりと振り返った。
「やあ」
胸元で、ちょこんと手の平をこちらに向けると、少女は微笑んだ。
長い睫に止まった白い粉までも、くっきりと鮮やかに視界へ飛び込んでくる。
数秒の沈黙に、少女は小首を傾げた。
僕の返答を待っている。
唇を血が滲むほど噛み締めて…。
「………」
無言を貫く。



 
右膝をついて身体を屈める。
「君は……」
髪の上に降り積もった雪を払い落としてやりながら、僕は少女を見詰めた。
頭を撫でられる事がよほど気持ち良いのか、少女は大きな瞳を細めて、赤く染まった頬に小さな手を置くと、うふふ、と笑う。
雪を払い終えると、僕はジャンパーのポケットから、無造作に突っ込んであった赤いキャップを取り出した。
ぶかぶかのそれを被せると、顔の半分が隠れる。
ひさしを上げて、調整してやって、やっと二つの瞳が覗けた。
ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
そんな動作一つ一つが、まるっきり普通の幼子のようだから、僕の心はひどく痛んだ。
「…君は、見つける事ができたのか?」
何を、などと無粋な事は聞けない、否、口にしてしまうだけで、今も僕の手の甲
に乗った雪のように、それははかなく消えてしまうだろう。
それぐらいに、どうでも良くて、大切なものなのだ。
「ううん、まだ」
少女は首を振った。
だが、失望した表情は浮べていない。
悪戯を考え付いて隠し通そうとしている、そんな顔をしている。
「お兄ちゃんは?」
僕もまた無言で、首を振った。
少女が笑う。
「だったらね、一緒に探そうよ」
それは、探して見つかるものなのだろうか……。
「…………」
返答できない。
少女は、形のよい眉を八の字にした。
「駄目……なの?」
ついさっきまで笑っていた顔が、泣きそうに歪められる。
自分で振っておいて、僕は慌てて話しを変えようと試みた。
「……父さんと母さんが、君に会いたがっているからね。それを探す事はいつでもできるよ」
「お父さんと……、お母さん?」
慎重に反芻する少女。
「お父さん?………お母さん?」
嫌な予感がした。
そして、僕の嫌な予感は外れた事が無い。
頭の中が痺れる。

「知らない。誰なの、それ?」

無邪気に尋ねられた。

そして僕は、少女の全てを見切る。

ああ、そうか。

それが、当たり前……なのか。

鳴沢紀美の思いも、鳴沢佑一の思いも、その娘には一切届いてはいなかったのか。
押し付けられる生と死をどちらも手放して、少女はここにいるのだ。
生の束縛から解放され、繭璃という個が横溢(おういつ)へと帰る一歩手前。

生死の狭間に少女はいる。

束縛でしかなかった親など言うまでもなく、時も場所も概念でさえも、今の少女に通じはしない。
絶対的な死に絶望し、生にしがみ付く事にも飽きた少女のなれの果てが、こんな結果を生んだのだ。
悲しすぎる。
僕はその事実から顔を背ける以外に何もできなかった。
「……繭璃ちゃん…知らないのならせめて覚えて…おやりよ。鳴沢佑一は、君の父さんだ、鳴沢紀美が君の母さんだ。……どんなに、君が拒もうとね、君を産んだのは…、育てたのは……彼等なんだ。誰よりも……幸せになって欲しいと願った人達なんだ。覚えておやりよ。遠い所へ、逝く前に…」
擦れた声は、上手く届かない。
途中で力をなくして、失速する。
冷たいものが、頭の上に乗った。
ひんやりと、だがなぜか暖いものが体中を包みこむ。
顔を上げた先に、少女の顔があった。
背伸びをして僕の頭を撫でている。
大人びた顔付きで…。
「わたしの知ってる人は、お兄ちゃんだけだよ。待っていたのもお兄ちゃんだけなの。わたしと一緒に探せないのなら、今度もまた待っているから、訪ねてきてね」
それだけを信じさせてと、少女の目が静かに言っていた。
他の物が何も信じられなくても、せめてそれだけは信じたいと……。
確かなものが一つでもあれば良いと。
それでわたしは大丈夫だよと。
だから、僕は…。

「………解った」

約束を交わしたのだ。
それが、僕の答えだった。
それが、少女の答えだった。
霊峰の頂上から吹き付ける風。
中空を漂う雪のみならず、地の雪までも舞い上がらせて……。
視界が白へと変わる。
何も見えない。
すぐ目の前にいる筈の、少女も見えない。
崖底から吹き上げる上昇気流とぶつかりあい…。

巨人が泣いた。

頭の上の温かさが去る。
風が、遥か下方の麓へと去る。
しんしんと…。
しんしんと…。
僕だけがいた。


 
* * * *



修理でもしたのだろうか。
自動扉が滑らかな動作で左右に開いた。
背中を脅かそうとする冷風を弾き返しながら、僕は僕の意志で院内へと歩を進める。
受付の窓口で、僕の姿を見つけたあの日の看護婦がにこりと微笑んだ。
軽くお辞儀を返してそこを通り抜ける。
東棟から西棟へ…。
硝子張りの渡り廊下には、暖かな日が差し込んでいる。
傍に置かれた長椅子には、小さな女の子と、その母親が窓の外を眺めながら戯れていた。
眩しさに目を細め、照度をしぼりこむ。
母子は幸せそうな笑みを浮べていた。
仲が良さそうだ
楽しそうだ。
生きている事に感謝しているだろう。
安心して横切れる。
西棟に入ると、明暗の差が激しくて、薄闇が全体を覆っていた。
暗い世界だ。
頭上に灯る蛍光燈の明りは、まったく意味がない。
あまりにも弱々しくて、この棟で鬱屈と過ごす患者達の闇を払えはしないだろう…。
棟の中央に備え付けられたエレベータは全て階上へ向かって発進している。
光の点滅が上昇していくのを僅かの間眺めてから、僕は通路の突き当たりにある階段をゆっくりと上っていった。
二階、三階、四階……。
鳴沢繭璃の病室があったのは五階だ、だが。
五階、六階……。
僕は表情を崩す事もなく素通りした。
当たり前だ。
その病室が少女のものであったのは、もう過去の出来事なのだから。
今はもう、別の患者を収容している事であろう。
その患者が、繭璃のように幼く、繭璃のように重病を患っているのかは解らない。
解らない方が身の為である。
屋上の鉄扉が迫る。
拳で殴り付けて外へと開け放った。
真正面から叩き付けてくる風に刃向かいながら、歩む。
蒼い冬空が頭上にあった。
寂しそうに佇んでいるのは、車椅子の老人の背中。
僕はそれを無視して進む。
この病院でもっとも天に近い場所へ向けて…。
赤錆の浮き上がった給水塔の前に立つ。
スターチスの匂い。
そう。
あの娘は最初から、僕を呼んでいたのだ。
至生山を登る前から…。
この病院を訪れる前から…。
依頼を受ける前から…。
約束を結んだあの時から…。
ずっと…。
時の束縛を逃れた、狭間の中で…。
梯子を緩慢な動作で上って、その先に見えたものに、僕は囁いた。

「やあ」

冷たく氷りついた身体はぴくりとも動かない。
閉ざされた瞳は開く事がない。
だから、僕の呼びかけに答えてくれる事などありえはしない。
でもこれでお相子だ。
ただ、胸元で堅く握られた赤い帽子だけが、ひらひらと靡いていた。
二度目の再開を果たした僕を迎えるようにして……。
そっと顔を上げると。
遥か至正山が見晴るかせた。



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