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Original Novel Yuki Presents



終わらない夏


第十幕

最後の夏



8/15(水)


「…やばい、ちょっと飲みすぎたか…?」
時間は5時28分
すでに空は白み始めていた
覚えている限りで眠りについたのは…3時過ぎか?
皐月は完全に沈黙してたし、良子ちゃんも先輩も熟睡してたな
ちょっと気分のすぐれない俺は外の空気に当たろうと庭へと出る
「…うーん、すがすがしい…。」
一昨日の風邪もなんのその、健康っていいなぁ
「夏樹クン、なにしてるの?」
「うぇ!?」
予想していない人物に声をかけられ、すっとんきょうな声をあげてしまった
「私が起きていてはいけない時間とでも言いたげな顔してますな、夏樹クン。」
そこには先輩の姿があった
「いや、まあなんというか先輩っていつも破天荒だからさ、朝弱いのかなーって…。」
起きぬけの頭でつい本当に思っていることをつい言ってしまう
しかし先輩は怒るそぶりも無く俺の横に立ち
「まあねー。こう見えても良妻賢母だし。」
「だし、っていつのまに母になったんですか。」
とまあ、朝一からどんな挨拶交わしてるんだか
そのあとしばらく早朝の静かな空気に触れていた
お互いに話すことも無かった
「先輩のこの間の話し、本当だったみたい。」
その中で別に報告する必要のないことを俺は話しだした
それはこの間の、国立病院で皐月を見た事だ
まだ皐月から本当のことは聞いていないし、あれが本当に皐月であるという確証は無い
だけど、怖くて聞けなかった、というのが本音だった
だから先輩に…いや、誰でもよかった
この事を聞いてもらいたかった
否定してほしかった
少しの間だけでも不安を消してほしかった
「そう、かぁ。皐月ちゃんも大変なんだね。」
しかし先輩の口から出た言葉は、否定ではなかった
「でもさ、誰かの付き添いとかいう可能性もあるわけだし。」
それを少しでも自分で否定しようとする
皐月に聞けば全部わかる事なのに
受け入れられない言葉を聞きたくないだけで…
そんな意気地無しの俺にできる最後の強がりだった
「確かにね、その可能性はあると思うし、私もなんでもないと思いたいわよ?
 だけどね、現実がどうであれそれを受けとめるのは夏樹クンの役目なのよ。
 だから…あなたが逃げて、どうするの?」
その一言に俺は息を飲んだ
何が本当かわからない
俺の思い過ごしだと思いたい
だけど今日、皐月は帰ってしまう
そう思っただけで言いようのない不安感が襲ってくる
もう二度と会えないんじゃないか?
そんな考えで頭がいっぱいになる
そんな俺に先輩は続ける
「人を好きになるって、大変な事だよね。たとえどんなに悲しい事でも、
 その人の全てを受け入れなければならない。」
先輩は淡々と続ける
それを俺はただ聞いているだけしかできない
「好きになった人の全部…いいところも悪いところも。楽しい事も悲しい事も全部、なんてね。
 だけどね、夏樹クンはすごく強くて、いい人だと思うよ。」
先輩の言葉に思わず苦笑してしまった
一応のフォローのつもりなんだろうけど
俺は…強くなんてない
だからこうして現実を受け入れようとできないんだ
たった一度、それも本人かどうかも分からない事を勝手に決めつけ、
そしてそれが本当なのか聞く勇気が持てない自分が嫌だった
「夏樹クンは認めたくないだけでしょ?少し考えすぎてるだけよ。
 だから、皐月ちゃんの事を受け止めようとしてるもの。
 ただ逃げようとじゃなく、受け止めてあげようとしてる。」
先輩はもっと気楽に、と言う
「あの時、確信もなくあんな話しをしたのは私が悪いと思うよ。
 それに…病院で見たからと言って、病気とは限らないしね。
 もしそうだとしても夏樹クン、あなたが支えてあげればいい。」
誰かの支えがあればきっと強くなれる
先輩はそう言った
皐月の支えに俺が少しでも役に立てばいい
それだけで、いいんだということを
「あーあ…酔ったせいかな、皐月に好きだって言った時のこと思いだしちゃって。
 その時の一言を…真剣に、もう一度考えてみちゃったよ…。」
なんて独り言のようにつぶやいた言葉を、先輩はただ微笑んで黙って聞く
“家族は心に残るだけだけど…恋人はずっと心を縛ってしまうから…。”
“私のこと…忘れないって誓える…?”
この二つの言葉の意味
好きな人との別れはとても悲しいもの
下手をすれば永久にその人の心の中に残ってしまうから
ずっと、縛りつけてしまうから
家族であればそれはただの悲しみにしかならない
心の中に残っても、忘れられない存在であるだけ
だから皐月は俺の家族になろうとしたのだろうか
俺の弱い心を縛らないようにするために
それは俺の前から永久にいなくなるような…
そんな風に解釈することのできる皐月の言葉
普通ならこんなの、ばかばかしく思えるかもしれない
だけど、皐月の考えることはなんとなく俺にはわかるから
皐月が言いたい事、わかるから
だからなんとなく、もう二度と…会えない気がしてならない
「うらやましいね、皐月ちゃんが。」
「ん?」
そんな考えでいっぱいでしばらく無言だったこの場に先輩が声を出す
「だってさ、そこまでわかりあおうとする彼氏、滅多にいないよ?」
「そんな立派なものじゃないって。ただ、自分が動かないで何かを失う事が嫌なだけからさ。」
「ふふ、かっこつけてなに言ってるんだか。」
早朝、誰もいない庭で二人で笑う
「まだ酔ってるのかな…こんなこと考えるなんて。」
「彼女の一言一句を真剣に考える、立派な彼氏になったんじゃないの?」
「だといいけどさ。」
また二人は空を仰いだ
「ほんと…夏樹君は立派な彼氏だよ。」
「うぇ?」
「え!?」
突然声をかけられたのとその声の主の二つに驚いた俺と先輩
そこには…皐月の姿があった
「ごめんね、盗み聞きするつもりはなかったんだけど…。
 なんだか出ていくタイミング逃しちゃって。」
「いや…こっちこそ勝手な憶測な話しを。」
いいよ、と皐月は庭に降りると俺の横に座り
「夏樹君が思ってる事、ほとんど正解だと思うよ。」
笑顔でそう言った
「…やっぱりまだあの時の怪我…治ってないのか?」
「怪我はなんでもないの。もう手術の後もほとんど残ってなかった…でしょ?」
と、なぜか皐月は顔を赤らめて…
「あ、ああ…うん。綺麗だった。うん。」
思わずあの晩を思いだしてしまい俺も顔を赤らめる
確かに皐月の胸から腹部にかけての傷はほとんどなくなっていた…
「だ、だからね…傷が痛むとか、そういうことはないの。ただ…その…。」
そんな場の雰囲気を変えようと皐月は話題を変える
しかしその言葉の後は続かなかった
だから俺も余計に心配してしまう
皐月も俺のそんな性格を知っているから言い出す事ができないのかもしれない
…不安なのは皐月のほうだろう?
俺以上に、不安なのは俺の大事な人だろう?
俺はその大事な人の支えになりたい
だから俺は、全部受け止めると…決めたんだから
「俺は…皐月の事、全部知っていたい。たとえそれがどんなことでも。
 だから、できれば…教えてほしい。」
これが俺のできる事だと思う
どんな困難でも二人ならきっと乗り越えられるから
「…なんて、ちょっとかっこつけすぎかな…。」
「ううん…すごく、嬉しいよ…あり…がとう…!」
なんとかそこまで言い終えると皐月は俺のほうに駆け寄り
…泣きながら、抱きついた
俺はそんな小さく震える女の子を優しく包む
今はそれだけでいいと思うから
そのままでしばらく時間が過ぎた
いつの間にか先輩はいなくなっていた
そして少し落ちついた皐月と一緒に縁側に座った
「…あのね、後遺症、っていうのかわからないんだけど…。脳に異常があるんだって…。」
皐月は淡々と語りだした
自分もよくわからない、とだけ付け加えて


2000年 冬


「…残念ですが、原因不明としか…。」
何度目だろう、この言葉をお医者さんから聞くのは
症状と検査の結果を聞くたびに私は嫌な気持ちになる
“あなたは馬鹿です”って科学的に証明されてるみたいなんだもん
確かにそうなのかもしれないから、余計にタチが悪いよぉ…
「おそらく、お嬢さんは普通の人と同じ様に記憶はしているのだと思いますが…。
 ただ、それを“思い出す”という行為に問題があるようです。」
そんな私の考えをよそに、お医者さんは黙々と話しつづける
うーん、私って若ボケなのかなぁ?
でも、私的には実感がない
部分部分で思いだせない、忘れてしまうのなら自分でもおかしいって思えるけど…
一つ一つの行動全てが抜け落ちてしまうらしいから、
私には自分でやったことでも無かった事と同じ事なんだよね…
ほんとはこれって悲しい事なんだろうね
だけど私には実感がない
悲しく思うのことすら無理だから、治らないのかも…
それだったら困るよ…
空っぽの私にとって、唯一の思い出
夏樹君の事まで忘れてしまうのは…嫌だから
そう思うと私は悲しくなれる
この謎の病気が嫌になる
だから私はこの記憶だけは持ち続けているのかもしれない
絶対に、無くしたくない記憶
忘れるだけならかまわない
いつか思いだせる時が来るならそれでいい
無くしてしまう事だけが怖かった
それは無かった事と同じになる
だから私はこの記憶だけは無くしたくないの
たとえ忘れてしまっても、無くさなければそれでいいの
私は信じているから
夏樹君なら私を…見つけてくれると思うから
空っぽになった私でも、信じてくれると思うから
そのために私はある計画を思いついたのです
夏樹君に、会いに行こう!って…


8/15(水):庭


それで体調を整えてこの夏に俺に会いに来てくれた
そう皐月は語った
「お医者さんもね、原因がわからないって言うから上手く言えないんだけど。
 記憶を…記憶できないんだって…変だよね?えへへ…。」
そう言う皐月の顔は、なんの感情も持っていなかった
ただ無感情に、自分の事ではないかのように話す
皐月の話しはこうだった
医者は“記憶のメカニズムに問題がある”と診断したらしい
だが体の事は本人が一番よく分かるのも事実だ
皐月が思うに“根本的に物事を記憶できない”らしい
その証拠に事故以前の記憶は今でもほぼ完璧に覚えているらしい
「だけどね、それって、すっごく怖い事なの…。
 ぜんぜん実感もないし…いつ忘れてしまうかもわからない。
 それにね、忘れてしまえば…今までの事はなかったことになっちゃうから…。」
また、涙が落ちる
忘れる事は全てが無と同じ
短い期間の中の、それでいて長い長い思い出の数週間
それも全て消えてしまう、そう皐月は語った
「遅かれ早かれ、私はまた全部無くしちゃうと思うの…。
 だから、そうなる前にあなたに会いたかった。
 私という人間が生きていた事を…誰かに覚えていてほしかった。
 私のわがままで、夏樹君を縛りたくなかったから、ほんとは会うだけのはずだったの。
 だけど…やっぱり無理だった、よ…。」
あなたを縛ってしまってごめんなさい、そう涙と共に皐月は…言った
「それは…違うと思う。」
「え…?」
だけど俺は思う
「たとえ皐月が忘れてしまっても、たとえ全てなくしたとしても。
 俺がずっと覚えていれば、そうすれば皐月と過ごした日は消える事はないから。」
…俺のこの答えはとても辛く悲しいものだとも思う
だけど…そうすることで皐月という女の子と共に過ごした時間
皐月という女の子がここにいたという証明になると思うから
「皐月が忘れてしまったって、必ず俺が会いに行く。
 それに今みたいになくしたものはまた作っていけばいい。
 だから…皐月が俺を縛る、なんて風に思わないでほしい。」
自分の存在が誰かの心を縛ってしまう不安
それが好きな人ならなおさらだろう
“家族”と“恋人”の違い
そして“家族”と“恋人”の同意
それを知りながらあの時皐月と誓いを交わしたのだから
俺は皐月と共に歩んでいく
「俺はきっと、迎えに行くから。」
「…私も…たとえ全部忘れたとしても、絶対に夏樹君の事は思いだす。
 ううん、夏樹君の事だけは絶対に忘れないから…!」
だから絶対大丈夫だよ、と胸を張る皐月
「そうだよ、皐月ならきっと大丈夫だって。忘れたとしてもまた俺に惚れなおさせてやるから。」
「うーん、期待しないで待ってるよ…。」
いつの間にか日が昇っていた
皐月の表情も明るくなっていた
俺も冗談が言えるだけ余裕ができていた
なんとかなる、そんな無責任な考えかもしれないけど
なにがあったって俺達は変わらないと信じているから
だから、俺は皐月を笑って送り出す事ができる
「じゃ、そろそろ中に戻ろうか。」
「うん、そうだね。」
皐月にも笑顔が戻っていた
俺達は中に戻ると
「…まだ6時か…寝なおすか?」
「うん、そうだね。電車までまだだいぶ時間あるし。」
時間は6時半を過ぎたところだった
さすがにまだちょっと寝足りなかったので俺は寝る事にして部屋に戻った
もちろん三人とは別の部屋ですよ?
なので皐月におやすみ、と言って部屋に入る
そのまま倒れこむように布団に入ると眠りにつくのは一瞬のようで…
しかし目覚めるのは相当な時間がかかるというわけで
「夏樹クン!いったいいつまで寝てるのよ!?」
そんな先輩の怒号で目が覚めるのだった
時計を確認すると9時38分
先輩の状況から判断するとすでに三人は起きていると思われる
「おはよー…っと、いい匂いが。」
手短に着替えをすませて居間にいくと日本の朝が広がっていた
「ほらほら、冷める前にいただくよー。」
先輩が待ちくたびれたと言わんばかりに俺を促す
どうもおばさんが用意してくれた朝食らしい
普段めんどくさくてあまり朝食を食べない俺だったが
思わず全部たいらげるほどにおいしいものだった
「ごちそーさまでした。」
食事中の会話の中で皐月の乗る予定の電車は3時ということが判明
もう少しゆっくりしようか…と思ったが
「なあ皐月、時間的にまだ余裕あるけどどこか行きたいところある?」
少しでも長く皐月と一緒にいたかった
少しでも多くの俺との思い出を残してほしかった
たとえ全て忘れたとしても、心の片隅で光るかけらとして残ってほしい
「え、えと…お店。」
その一言で俺達はバイト先へとやってきた
相変わらず客はいなかったけど、今の俺たちには都合がよかった
「私が…初めてアルバイトしたお店か…えへへ…。」
楽しいこと、辛いこと、いろいろあった店
皐月にとって全てが初めての、新鮮な場所
おかげで“なんでもない日常”としか思っていなかった出来事も、
俺も最初に味わった楽しさを思いだせた気がする
皐月がいた日常はこれから過去へと変わってしまう
だけどそこに皐月がいたことは事実だ
皐月も店の風景を目に焼きつけるように見入っている
「や、みんなおそろいだね。」
バイトが全員休んでしまったため社員が二人出勤していた
まあできれば通常も二人いてほしいんだけどね…
「皐月さん、今日帰るんだって?今までありがとうね。」
「こちらこそ突然押しかけてしまってすいませんでした。」
ぺこっと頭を下げる皐月
「あ、そうそう、忘れるところだったけどこれ、お給料ね。」
店長はそう言って給料袋を皐月に手渡す
てか店長、一番重要なことを忘れないで…
「うわ…ありがとうございます!」
皐月はそれを嬉しそうに受け取った
「記念に写真でもどうだい?」
その時、光先生は趣味のカメラを車から出してきた
なにかあると写真を取りたがる、写真魔な人だった
バックがバイト先っていうのも…いいかもな
「よしっ!みんなで撮るわよ!」
案の定先輩もノリノリだった
「んー、夏樹君、もう少し右ね。ん、佳野さんも、もう少し真ん中に寄って。」
どうしてもこの人はベストポジションに撮りたがるらしい
さっきからしばらく位置決めで俺達はうろうろしていた
それもいいポジションになったのか“撮るよー”らしい
そしてシャッターの瞬間
「うそ!?クモ!?」
突然真ん中の先輩が暴れだした
「ちょ、危ないっておわあ!」
「大丈夫ですか、って危なきゃぁぁ!」
カシャ
なんというか、お約束に思いっきりこけた写真が一枚
その後の撮りなおしでまともなのが一枚カメラに収められた
「じゃあ現像できたらみんなの家に送るからね。
 皐月さんの分は…おじさんの家でいいかい?」
「あ、はい。それで大丈夫です。」
…そういや結局おじさんとおばさんの姿を見ることがなかったな
「さて…それじゃ、そろそろ行こうか?」
「うん、そう…だね。」
名残惜しそうに店を見ていた皐月も顔をあげた
そして駅に向かってゆっくりと歩き出す
この一瞬を踏みしめるようにゆっくりと歩く
その道は短い夏の思い出話でいっぱいだった
皐月にも、俺たちにもかけがえのない思い出を確認するように歩く
そんな道もあっという間に終点へと近づいてしまう
「あ…ちょっとお土産買いに行ってくるね。」
とのことだったのでしばらく駅前のデパートに立ち寄った
皐月がお土産の選定に行っている間に俺は4階へと足を伸ばした
「確か…この階だと思ったけどな…。」
あまり時間もないので急いで目的の店を探す
ちょうどエスカレーターの前にその店はあった
確かちょっと前に先輩が皐月を質問攻めにした時があった
あの時の情報の内容がまだ変わってないならこれで合ってるはずだ
俺はそれを購入すると急いでみんなのところに戻った
「あれ?夏樹くん、どうしたの?」
慌てて走ったので少し息が上がっているようだ
待ち合わせ場所にいた良子ちゃんが不思議そうに見ている
「い、いや…ちょっとね。」
適当に俺は返事をした
幸い皐月はいないようだったので今のうちに息を整える
するとそこに皐月が帰ってくる
「って、大丈夫か?息上がってるぞ?」
皐月も慌てて帰ってきたらしく肩で息をしていた
「待たせると悪いかなって、思って、慌てて、帰ってきたよ…。」
とりあえず俺は休むように促した
「お待たせー。」
それと同時に先輩も帰ってきた
「あれ?絶対遅れると思ったのに。」
「こういう時ぐらい時間通りにくるわよ…。」
わざと呆れた顔をする先輩
俺の電車待ちだったら絶対ぎりぎりまでこないくせに…
「っと、皐月、電車大丈夫か?」
「うん。余裕だよ。」
少しだが座って休んだので皐月の息も整っていた
というわけで乗り遅れたらまずいので余裕をもって出発
この駅始発の電車はすでにホームで待機していた
俺達は切符を持ってないので改札でお別れだ
「じゃあね、皐月ちゃん。」
「皐月さん、お元気で。」
「短い間だったけど、お世話になりました。」
皐月は二人にふかぶかとお辞儀した
「またいつでも遊びにきなさいよ?じゃないとこっちから押しかけるからね。」
「うわ、先輩が言うと本気で実行するからな…覚悟しとくように。」
「有言実行が私のモットーよ。」
「よく考えて物事を起こしなさいって。」
軽いボケツッコミが入ったところで電車のアナウンスが入る
皐月はいそいそと鞄を持ち乗りこむ準備に入る
「そ、それじゃ…夏樹君も元気でね!」
精一杯の笑顔を見た
一瞬だけ、俺に見せた
俺にはその一瞬でその笑顔の裏を見た
涙を見せまいとする表情ではない
何かを、覚悟した笑顔
その覚悟は…別れの色だった
それが意味するもの…忘却?
皐月は俺を、この夏を忘れかけている…そんな気がした
勘違いかもしれないが一度浮き出た不安は拭えなかった
それだけ言い残すと皐月は改札をくぐる
俺は無意識にその後を追った
急いで入場券を買い構内に入る
「皐月、待った!」
俺は皐月の腕を掴む
「実はさ、渡したいものがあるんだ。」
俺はさっき買ったものを取り出した
後で家に送ってやってもよかった
きっと皐月は俺の事を忘れない、そんな根拠の無い自信もあった
だけど、あの悲しい笑顔を見た俺はどうしても追いかけたかった
直接手渡しすることで皐月の思い出に残ってほしかったから
「これなんだけどさ。家に帰ってから開けてくれるか?
 もし俺のこと忘れても…これを見て思いだしてほしい。」
小さな箱を皐月の手に握らせる
ちっぽけでもいい
きっかけを…渡したかった
皐月のことを信じている俺だったけど…どうしても不安を取り除きたかった
そして皐月も一言
「あのね、夏樹君…私…ごめんね…!」
みんなの前でこぼれなかった涙が光る
その涙の意味は、俺の予感が合っている証拠だ
「…もう、この夏のこと…忘れたのか…?」
「部分、部分だけど…ほんとうに、ごめんなさい…。」
皐月が言うには少し前から徐々に記憶が抜け落ちていたらしい
だけど皐月は俺の名前を呼んでくれている
それだけでいいと、俺は思う
今まで新しい思い出を作っていけたんだからまた作っていけばいい
二人の心がつながっていればいくらでも作りだせるのだから
「夏樹君…これ、受け取ってほしい…。さっきデパートで買ったの。」
皐月はそう言うと小さな箱を取り出した
俺が渡したものと同じ、濃紺の小さな箱
おそらくその中身も、俺が送った物と同じ物が入っているだろう
それを選ぶための、あの何気ない会話を俺が覚えていたように、
皐月も覚えていてくれた証だと思う
だから、俺は少しだけ安心できる
「…私の小さな夢…私の初めてのお給料で好きな人に…
 プレゼントを買うって…叶った、よ…!」
それ以上言葉は続かなかった
俺も泣いていたかもしれない
重い、重い小さな箱
大きな思いが詰まった小さな箱
「ありがとう…俺、ずっと大事にする。もし皐月が俺をなくしてしまっても、これが俺という目印だ。」
お互いの約束であり目印に…そんな指輪を交換する
どちらが言いだしたわけでもなく、偶然に重なった指輪交換
この絆があればきっと大丈夫だと思う
「さ、もう時間だから…行こうか。」
俺は皐月の手をとるとゆっくりと階段を歩き出した
しばらく皐月はうつむいたままだったが
「…ごめんね、夏樹君。…でも、ありがとう。」
正真証明の笑顔を見せた
その目には迷いのないまっすぐな光があった
この光がある限りきっと…大丈夫だから
俺は彼女の手を…離した
そして
「さようなら、皐月。必ずまた会おうな。」
「さようなら、夏樹君。必ずまた帰ってくるね。」
短い夏だったけど、俺のアルバムには皐月の笑顔で一杯だ
今までの夏で一番充実した夏かもしれない
だけどその夏ももう終わる
また来年へと続いていく
その夏に向けて皐月を乗せた電車は走り出した
俺の目に、最後の一瞬まで皐月の笑顔を残して…
“また来年、ううん、春にまた会おうね”
扉が閉まる瞬間に聞き取れた皐月の言葉
その言葉を信じて俺は二人の元に戻った
「あ!夏樹クン!一人で行くなんて…。まったく。」
「ずるいですよー!私もお別れ言いたかったのに…。」
しばらく待たせてしまった二人が口を尖らしていた
「ごめんごめん、どうしても言いたいことがあってさ。」
そんな日常に戻っただけの夏
皐月のいた特別な日常はまた、春に帰ってくる
それを信じて…俺は待つ




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