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Original Novel Yuki Presents



終わらない夏


最終幕

終わらない夏



…これは夢なのだろうか
知らない場所で知ってる人と出会った
昔からずっと知ってる人
昔からずっと会いたかった人
その人と楽しい時間を過ごした
二人の女の子と会った
いろんな場所に行った
…だけどこれは夢なんだね
それしかわからないしそれ以外知らないし
忘れてはいけない大切なものだったのに
それすらも忘れてしまいそうで怖いけど
これは夢
私が作りだした悲しい夢
だから忘れてしまおう
もしこの夢に浸ってしまえば、また誰かを苦しめてしまうから
あの時みたいに夢に浸ってしまうことはできないから
あの時と同じようにきっとこの夢も幻に違いない
でも私はどうしてこの夢を夢と決めつけるのだろう
この三人との出来事をどうして夢と決めつけることができるのだろうか
今までとは違う、現実味を帯びた夢
…だからこそ忘れよう
もしこの人の言うことが本当だったら
また必ず会おう、という言葉を信じるとすれば
それはいったいどれぐらいなの?
一日?一年?十年?
昔、あなたはしばらく会いにきてくれないことがあったよね
今度もその時と同じなの?
そんなのは嫌
もう待っているだけなのは嫌
だから全部忘れてしまおう
この夢に関しては全部忘れてしまおう
それが私の弱い心を守るための自衛手段
本当は信じて待っていたい
だけどそれは長く苦痛なもの
だから私は、今までこうして全てを忘れてきた
今度も同じように全てを…忘れよう…


?/??


ここはどこだろう
私は誰だろう
「……、……!………。」
誰かの声がする
内容までは聞き取れない
でもなんだか必死みたいだから
私は起きることにした
「……?」
私は起きあがるとその人に向けて口を開けた
「おはよう、皐月。調子はどう?」
「…、………。」
私はただ口を開けたり閉じたり
この人みたいになにかを発することができない
ここは白い部屋
いつか見たことのある懐かしい部屋
この人は私のお母さんという人らしい
時折お父さんという人もきてくれる
時折白い服の人もきてくれる
ただ私の目にライトを当てるだけの人
何をしているのかは知らない
時々頭になにかをつけられることもある
なにをしているかはわからない
私は何も知らない
何を知らないのかわからない
お母さんという人はこう言った
あなたはずっと眠りつづけていたの、と
私にはこれが嘘だとわかった
なぜそう思ったかはわからないけど
そしてそれが何を意味するのかわからない
ただ言えることは
私は皐月という名前らしいけど、それ以外何も知らない
「…、………。」
「なに?皐月、これに書いてね。」
お母さんは私に棒と板をさしだした
いつもこうやって私が思ったことをお母さんに伝えている
またいつもと同じ繰り返しで暗くなっていった
ただ一つだけわかることがある
私は楽になるために全てを忘れたという事を



?/??


またお母さんの声で起こされた
いろんな物の名前を教えてもらった
この棒はペンで、板はノートというらしい
今日は今日で、昨日は昨日
少しずつ名前がわかってきた
でも、前にも聞いたことがあるような気もするけど
知らないからきっと気のせいだと思う
白衣の人はお医者さんで、病気を治してくれるらしい
でも私は治せないらしい
難しい病気で、全てを忘れてしまう脳の病気だと聞いた
そんなこと言われてもわからない
今までの記憶を思いだすなんてことはできない
だって私の記憶はこの白い部屋の生活だけだから
ただ一つだけわかることがある
私は今とても楽だった
だからこれからのことを忘れる必要は無いという事だけはわかった
だから今までにもしも覚えていた事があっても、それを思いだす必要もないと思った
そんな日を、幾日繰り返しただろう…


2002/8/1(木)


「いってらっしゃい、お母さん。」
いつものように私はお母さんを送りだすと洗濯をはじめた
あの病気も少し落ちついたので私は家に帰ってきた
少しずつだけどいろいろ覚えることもできるようになった
お父さんもお母さんも私に優しくしてくれている
だから少しでも恩返しがしたくて家事をしようと決めた
「さてと、いいお天気だし…お布団も干そうかな。」
記憶のない私に優しくしてくれる二人に少しでも恩返ししたかった
「昔のことが思いだせないのがちょっと悲しいけど…。
 忘れるってことはたいしたこと無いんだよね、きっと。」
そう思いこむことで逃げようとしていた
思いだせばきっと楽しいことだけでなく悲しいこともたくさんあるのだから
私は今の暮らしが好きだった
たぶん、思いだすよりも楽しいと思う
だけどこのことを考えるといつも決まって胸が苦しくなる
それも自分に悪いことがあるなら問題無いけど…
人の心配をしている時のような錯覚を覚える
なんでこんなにも胸が苦しくなるんだろう?
なにか思いださなければいけないことがあるのかな…
ピピピピピピ……
「あぅ、洗濯終わっちゃったよー!」
そんなことを考えてしばらくぼけーっとしていたみたい
洗濯機から呼びだしがかかる
私は慌てて下へと降りるとそのまま洗濯を開始した
こんな感じで私の毎日は終わっていった


2002/8/5(月)


今日もまた同じ一日の始まりだった
「掃除にも洗濯にもだいぶ慣れたかな。こんなに早く終わるようになったねー。」
掃除、洗濯といった単純作業はほとんど完璧だったりする
「あ、メール来てるかチェックしよーっと。」
最近はまっているのはEメールでいろんな人とお話する事だった
家から出る事がほとんど無い私にとってはすごく楽しいものだった
「スイッチいれて、メールを見る事ぐらいはできるもんねー。」
あと文章を打つのも以外に早かったりする
この間それでお父さんに誉められてすごく嬉しかったっけ
でも今までやったことないのになんでこんなに早いんだろう…?
「うーん…ひょっとして隠れた才能とか言うやつですか!?それだったらすごいよー!?」
などと一人で浮かれていると
「あ、そうだ。お母さんの部屋の掃除しないとね。」
毎週月曜日はお母さんの部屋の掃除の日だった
私はメールをチェックしてパソコンの電源を切った
でもお母さんの部屋はいつも綺麗だからほとんど掃除するところ無いんだけどね
「ごみ箱よーし、布団よーし、洗濯物なーし。」
一つ一つ指差し確認をしても汚れてるところは無いね
後は軽く掃除機かけて終わりかな…って
「あーあ、お母さんったらまた本読みっぱなしだ…。」
お母さんは読んだ本をそのまま枕元に置いておく癖があった
私はそれを元の場所に戻そうと本棚に近づいた
「…えと…あった、このシリーズだね。」
私は同じ作者の本の横にそれを並べる
「多分この場所であってると思うけど…あれれ?」
その下の段に封の切られていない手紙が何通かあるのを見つけた
「お母さんったら…大事な手紙だったらどうするんだろうね。」
私はその数枚の手紙をお母さんの目に付くところに置いた
その時ふと目に差し出し人の名前が映った
差し出し人は“澄原夏樹”となっていた
「…お母さんに男の人から手紙…まさか、不倫とか!?」
まさかそんなことはないよね
昼間お仕事に行く以外は家にいるんだもん
それにしても…なんだろう、とても懐かしい気がする
心があったかくなる名前だった
「それに…この名前だったら女の人でもおかしくないかな?」
なんで“男の人”って思ったのかなぁ
私は表を見た
宛て先には“櫛田皐月”と書かれていた
「…あれれ、私宛てになってるねー。」
この人は私の知り合いなんだろうか
「うーん…だから懐かしい気持ちになったのかな…。でも私この人のこと知らない…よね。」
知らないはずだった
それなのに知らないと決めつける心が痛い
すごく悲しい
涙が溢れてくる
中を読んでしまえば原因が全部わかるかもしれない
だけど私の目に触れないようにここにしまってあったということ
それはきっと私は見てはいけないということだと思う
だから勝手に見ることはできなかった
「皐月、ただいまーー。」
その時お母さんが帰ってきた
私はどうしようもない気持ちでその手紙を持った
「ただいま、皐月…ってどうしたの!なにかあったの!?」
泣いている私を見たお母さんが荷物を放りだして駆け寄ってくる
「…この人の名前を見たら…涙が止まらないの。
 この手紙はなに?この人は私の知り合いなの?」
お母さんはしばらく考えていたが
「その人はね、昔に皐月を殺そうとしたんだよ。だからね…もう忘れなさい!」
怖い顔でそう言った
…昔に、私を…?
私には昔の記憶は無い
そんな事一度も聞いた事は無いし、その人の事も知らない
そもそも、私は今までずっと病院で寝ていたんだよね?
お母さん、そう言ってたよね?
なのにどうして私がそんな目にあうの?
いっぱい聞きたいけど口には出せなかった
それを聞いてしまうと今の時間が壊れてしまう気がした
全部捨ててその人のところに行ってしまいそうだった
私は今の時間が好きだった
だから、この時間を壊してまで昔の覚えていない時間に浸かろうとは思えない
私はお母さんにその手紙を返すと部屋に戻る
そしてベッドに倒れこんだ
すごく寂しかった
なぜか一人になった気がして寂しかった
横にいてくれた人がいなくなった、そんな感覚
「…こんな時は部屋の掃除、だよ…。」
いつも悲しい時は部屋の掃除をする事にしている
いろいろ考えていれば…悲しい気持ちはすぐに拭き飛んでしまうから
「えと…確か引越してから手つかずの段ボール、あったっけ…。」
退院してから私は家を引っ越した
昔はすごく大きな家だったそうだけど、お父さんのお仕事の都合だって
「…そういえばあの手紙…知らない住所だった。」
ちらっと見ただけなのに鮮明に覚えている住所
あの一瞬で覚えたわけがない
一瞬でも見てしまったから…思いだしてしまっただけかもしれない
「だめだめだめだめだめ!!もー、悪い方に考える癖はだめだね…。」
私は頭を切り替えて部屋の掃除を始めた
だけど、その住所がずっと引っかかっている
なにかすごく…重要な事があった気がするけど…思いだせなかった
その時いつものように私は指に光る指輪を見た
それは、いつからか私がはめている指輪
なぜだかこれを見るとすごく心が落ちつくから、好きだった
「そういえば…さっきの手紙の差し出し人…夏樹さんと、
 この指輪に彫ってある“Natsuki”っていう名前は…偶然の一致なのかな…。」
どうして私がこんなものを持っているのかは知らないけど…
なぜかそれを離したくなかった
きっと、大切なものなんだろうね、これ…
もっとも…それがなぜ大切なのかはわからないけど
「それより、樺織おばさまの家に行く準備しよーっと。」
明後日は初めての一人旅だし、準備を怠らないようにしないとね
…まあ、厳密に言うと“初めて”じゃないと思うけど…
覚えていないなら、知らないなら…“初めて”ってことだよね
私が一人で旅行するのも、樺織おばさまの家に行くのも…
「でも、なーんか前にも同じ事したような気はするんだけどなー…。」
初めての一人旅に、期待と不安でどきどきしながら準備した夜のように、
それと同じような気持ちで荷物をまとめてるのは、気のせいかな…?
「まあいいや。そのうち思いだすね、きっと。」
そして私は準備を終えた
 

2002/8/8(木)


「ありがとうございましたー。」
時間は19時55分
あとちょっとで閉店だ
「なんか今日は忙しいねー。」
先輩が背伸びしながら眠たそうにあくびする
「ほんと、皐月さんがいなくなってから忙しいですよね。」
良子ちゃんの言うように去年皐月がいなくなってからやたらと忙しかったりする
とはいえ、今のこのお盆の時期ぐらい忙しくないとなぁ、本気でこの店潰れちゃうよ
どうせ明日には“暇だー”とか先輩が叫ぶだろう
「また手伝いに来てくれるといいんだけどなぁ…。」
あれから何度も手紙を送ったりしたが返事はこない
短い出会いからもう一年が過ぎた
俺はというと相変わらずダメ学生をやってたりする
まあそのダメっぷりと言ったら、バイト先に就職を決めるぐらいですがね
ようするに就職活動もサボリというわけであります
とはいえこの時期、就職大変ですよ!!??
と、なにかに叫んでも仕方ないよなぁ…
「ねえねえ、皐月ちゃんと連絡とれてるの?」
「いや、音沙汰無し、かな…。」
本当はすぐにでも会いに行きたかった
ひょっとすると全て忘れてしまったのかもしれないという不安もある
だけど皐月にも何か会えない事情があるに違いない
それにあの時皐月は絶対に思いだすと約束してくれた
だから俺は信じて皐月を待つ
「えー、それじゃあ…別れちゃったの?」
「なんでそんな結論になるんですか…。皐月にも何か事情があると思うし、
 俺は信じてますよ…絶対に帰ってくるって。」
「他にさ、いい男がいたとか、新しい恋を見つけてる、とか…危機感を持ちなさいよ。」
うぅ、確かにそれは心配かもしれない
「…私は、帰ってきてもらわないほうがいいかな…。」
「え?」
そんな俺と先輩のやりとりを見ていた良子ちゃんが口を挟む
「だって…ライバルは少ない方がいいですから。いづみさんだけで十分です。」
「こら、良子ちゃん!勝手に何をしゃべるのかな!?」
がらにもなく先輩が顔を真っ赤にして良子ちゃんに掴みかかる
「や、やめてくださいよーー。」
「いーや、やめないわよ!」
…お客がいなくてよかったと俺は心底思った
二人して楽しそうに店内を走り回っている
しばらくして落ちついたのか疲れたのか、二人が戻ってくる
「つ、疲れました…。」
「きょ、今日は…これ、ぐらいで勘弁してあげる、わ…。」
そんな二人に言うわけでもなく俺は言った
「まあ、俺は皐月を…待つからさ。」
良子ちゃんは相変わらず俺のことを好きだといってくれた
確かにただ待ちつづけることは悲しいし、寂しい
だけど俺はもう曖昧な気持ちで誰かを傷つけることはしたくない
だから俺は皐月だけを待つ
きっと約束を守ってくれると信じているから
「…それは遠まわしに、皐月ちゃんだけが好きだってことね…?」
「皐月さん、いいなぁ…。」
なにげに二人の目が怖かったので
「ほ、ほら。店閉めるよ?」
俺は話題を変えた
俺が売上を数えて先輩が外、良子ちゃんがコンピュータに打ちこむ
いつもの光景だった
「…夏樹くん、本当に皐月さんのこと好きなんですね。」
そんな中で良子ちゃんがつぶやく
「約束だから。必ず思いだす、必ず会いにくるって言ったから。俺はそれを信じて待つだけだよ。」
「うらやましいわね、ほんとにもー!」
「うわ!びっくりした…。」
突然叫ぶので普通に驚いた
しかも良子ちゃんが!?と思ったのでなおさらだ
しかし声の方を見ると主は先輩だったので納得した
「待て!私だと叫んでも不自然じゃないキャラなの!?」
うわ、しかも心の中にツッコミ入ったよ…
「いづみさん、キャラ変わってますよ…?」
「ふん!作者が途中で語られるはずの私のエピソード削るからよ!」
いや、それは進行の都合というものだから仕方がないだろう
「ってそんなこと関係ないでしょうが…って清算終わったからね。」
とりあえず店を閉めることが先決だったので先輩に仕事を渡す
ぶつぶつ言いながらも先輩は店内の後片付けを始める
「夏樹くんっていづみさんの扱いに慣れてますねー。」
良子ちゃんはそんな怖いことを言った
「とんでもない…あの人をコントロールできる人間はほとんどいないよ…。
 とはいえ三年間も一緒にバイトしてたら癖とかわかってくるからね。」
三年間も顔会わせてれば、弱点の一つや二つあるわけで…わはは
「いいなぁ…私もいつか夏樹くんとあんな風になれたらいいんだけどね…。」
時折見せる良子ちゃんの悲しい笑顔
やはり俺はこの表情を見ると、どうにも胸が苦しくなる
確かに付き合いを重ねていくうちにいろんな面が見えた
もちろんバイトの上でのみ、だけど…
いい子だし、かわいいと思う
だけど妥協という形で付き合って人を傷つけるのはもう嫌だった
「ま、俺は皐月を待ちつづけるよ…いつまでもね。」
「…待ち続けるだけってすごく辛いことですよね…。でもいいなぁ、そういうの…憧れだな…。」
「そんなかっこいいもんじゃないし。それより帰るぞー?」
俺はそこで切り上げて店内の先輩に帰宅を促す
「遅いわよー!こっちはもうとっくに終わってるわよ!待たされる身にもなってみなさい!」
「なんか、“待つ”にもいろんな重みがあるんだって感じたね…。」
「…そうですね…。」
二人で苦笑しつつ施錠をして閉店となった
俺は売りを社長宅に届けるので先輩と良子ちゃんには先に帰ってもらった
そして一年前とまったく変わらない夏の夜を歩く
皐月を見送った日と同じように月明かりが寂しかった
はかなくも淡く、優しい月の光はついあの夏を思いだしてしまう
俺はあの夏を忘れないように、思い出を手紙に綴り皐月宛てた
その数はいくつかもう忘れてしまったけど、返事はこなかった
忙しいのか、届かなかったのか、もしくは忘れてしまったか…
だけど俺は思う
もしもできることなら…皐月には俺の事を忘れていてほしいと思う
もしも届いていないのなら返事がくることはないだろうし、
それに…忙しいという理由で返事を書いてもらえないというのもちょっと悲しい
ただ忘れたというだけなら、その手紙を見ることであの夏を思いだせる
そんなきっかけになるかもしれない
一目でも見てもらえていれば、それでいいから
無理な返事はいらない
「ってまた社長の家通り越してるよ。」
俺はまた再び来た道を戻ると社長宅で売りを手渡す
そして月明かりの道を家に向けて歩き出した


2002/8/9(金)


「うわー、海だー!」
私は樺織おばさまと詩玲おじさまに連れられて近くの海岸に来ていた
ずっと眠っていたという私には初めての海なのです!
「あ、あわわわわ、沈むよー。」
砂浜に一歩降り立つと、焼けるような熱さと歩きにくい感触
うーん、なぜにこんななのに、みなさんはここにきたがるのかわからないです
「ほら、皐月ちゃん。海で泳いでらっしゃいな。」
しかし樺織おばさまは私にそう促した
なので初海にちゃれんじです!
「うーん…冷たくて気持ちいいけど…べたべたするね…。」
正直な感想でした…ちゃんちゃん
…って、楽しくないのはたぶん私が一人で来ているからだろう
回りを見れば、かならず誰かと一緒にきている
もちろん今私は樺織おばさまと詩玲おじさまと来ているわけだけど…
そういうのとは違う“誰か”が今の私にはいない気がした
どこを見ても笑顔が溢れている
だけどここには、それがなかった
やっぱり夏樹君とこないと楽しくないよ…
「あら、皐月ちゃん。もういいの?」
「うーん…ちょっと疲れちゃったから。」
「そうか…じゃあわしが代わりに泳いでこようかのぉ。」
「ほらほらおじいさん、無理しちゃだめですよ?」
「おー、詩玲おじさま泳げるんですか?うらやましいな〜。」
などと空虚な言葉を…ただ、並べてみるだけ
詩玲おじさまと樺織おばさまの間にある笑顔
それが今の私には無かった
「あ、詩玲おじさま。この海、灯台のほうはクラゲがいるから気をつけてくださいね。」
「!?」
その一言に、二人は私を見て驚いている
私…何か変な事言ったのかな?
「皐月ちゃん…記憶、戻ったのかしら…?」
「…記憶?樺織おばさま、いったいなんのことを…?」
正直、樺織おばさまの言っていることが分からなかった
私がここに来た事があるのがいけないことなのかな…?
「…あれ?私いつここに来たんだろう?」
そうだよ、私は海は初めてなんだよね
じゃあなんでここに来たことがあると思ったんだろう
確かあの時は横に笑ってくれる人がいたはずだから…
…笑ってくれる人?
誰?誰だろう?
夏樹君の顔が思いだせないよ…
夏樹君?夏樹って誰?
そういえば私、さっきその人の名前を浮かべてた…?
だからこの海のことを…思いだしたのかな
ううん、そんな事はありえないよ
思いだすもなにも、私の記憶には残ってないんだもん
それなのに…なにがこんなに悲しいの?
なにをそんなに哀れんでいるの?
“思いだせない”こと?
“失くしてしまった”こと?
それとも…

“思いだそうとしない”こと?

「皐月、それはただの思い過ごしじゃ。だから…」
詩玲おじさまはなにかを言おうとしてそのまま黙ってしまった
きっと私の目に光る雫を見たのだろう
なんで泣いているんだろうね
どこまでも、どこまでも流れて行く大粒の涙
私自身、どこにこれほどの涙が隠れていたのか信じられなかった
だけど悲しいことは何一つ無かった
なぜだか胸がすっとしている
どうしてこんな気持ちになったのかは分からない
ただなにか、あたたかいモノを取り戻した気がした
ひょっとして私がここにきたのは、知らない私が導いてくれたのかもしれない
突然樺織おばさまの家に行きたい、なんて思ったのはそのせいかもしれない
本当の理由を言えばお母さんが反対する
そんなことを無意識に思ってしまったから、樺織おばさまを利用したのかもしれない
そこまでして会いたいのは…このあたたかいモノと関係があるんだろう
きっと私は、ここにそれを探しに来たのかもしれない
「…樺織おばさま、私は…私じゃないんでしょうか…。」
「…そうね…なんと言っていいかわからないけどねぇ…。
 皐月ちゃんは皐月ちゃんでも、心ここにあらず、かもしれないわねぇ。」
そんなよくわからない問いかけに、樺織おばさまはそう答えてくれた
なぜだかすごく嬉しかった
「これ、ばあさんや。その話しは静玖さんに止められておるではないか…。」
「いいじゃないですか、おじいさん。私はあの子…夏樹さんでしたっけ?
 あの子なら皐月ちゃんと歩いてくれるって信じてますからねぇ…うふふ。」
詩玲おじさまと樺織おばさまはなにか話し合っていた
その中には…私のお母さんの名前もでてきたけど、
驚いたのは夏樹という名前がでてきたこと
なんで二人がこの名前を知っているの?
「あらあら、ごめんねぇ。皐月ちゃん一人だけ分からないって顔してるわね…。」
私が顔中に“?”を浮かべていると樺織おばさまは説明しはじめた
それは少しだけ昔のお話だった
とある駅での出来事
轢かれそうになった、ある女の子を助けた男の子の話しだった
「それを見た時ねぇ、私はすごく恥ずかしく思ったのよ…。
 遠い昔に同じ境遇で、大事な物を無くしかけておいたのにも関わらず…、
 私はその時なにもできなかったの。」
たまたま居合わせた駅で、まったく同じ光景に出会った
瞬間、次になにが起こるのかはその場の誰よりも早く理解できた
その男の子を除いて、誰よりも早く理解できたのに動けなかった
そう樺織おばさまは続けた
「だからねぇ、私はすぐにその二人のところに駆け寄ったのよ。
 その時にその男の子の名前を知って驚いたの…。
 二人の心配もあったんだけどね、なによりその男の子の名前を知りたかったわ。
 私より、同じ状況を知っている私よりも早く動くことができるのは、
 きっと同じ境遇に遭ったことがある人でないと無理だと思ったのよ。
 だからひょっとしたら、その男の子は…白雪姫の王子様と思ったのよ。
 そうしたらほんとに…まさか、本当に…王子様だったなんてねぇ…。」
樺織おばさまの言っていることはよく分からなかった
それがいったいなんなんだろう?
私が夏樹という名前を知っていることに関係があるの?
「皐月や…本当に、もう思いだせないのかい…?」
「詩玲おじさま…私にはなんのことなのか全然…。」
…嘘
もうそこまで思いだそうとしている
でも今更それを思いだしてどうなるんだろう
たぶん楽しいことも一杯あるんだと思う
だけど、それ以上に痛いことや苦しいこともあるんだと思う
それを考えると…今の私で支えきれるか分からなかった
だから思いだそうとしないのかもしれない
だから私は、いつまでもいつまでも…
繰り返し、この終わらない夏で彷徨っているのかもしれない
だとすれば…私はきっとこの夏も…全てを諦め、彷徨うのだろうか
「もし、自分で思いだす覚悟があるなら…わしが教えてやってもええぞ…。
 じゃが、決めるのは皐月自身じゃ。強制はせんよ…。」
詩玲おじさまはそれだけ言うと優しい笑顔で私を見ていた
樺織おばさまも優しく微笑んでくれていた
それを見て私は… … … …


2002/8/10(土)


今日もまた、暇な一日が終わろうとしていた
「お盆過ぎると急激に暇になるのよねー。やだやだ。」
昨日の予想通り、先輩が横で愚痴をもらしている
「そうですか?いつも暇だと思いますけど…。」
さらに良子ちゃんも凶悪な相づちを打っている
この2年間で、先輩化が進んでるよ…良子ちゃん
「夏樹クン、今さらっと失礼なこと考えてたでしょ?」
「い、いや、決してそんなことは…っと、閉店処理しないとね、あはは…。」
どうも先輩の鋭さも増しているようで、あまりにうかつなことは考えることもできないらしい
俺は突っ込まれる前に逃げるように閉店処理を始める
皐月がいなくなってから、大学が長期休暇中はバイト三人で店に出ていた
午前中はパートのみなさんで、午後は俺たちバイト三人
そんないつも通りのローテーションが続いていた
去年のような変則型が…懐かしい
それに、やっぱりそこに皐月がいないということが…寂しかった
たった2週間程度だったにも関わらず、何年も一緒にいたような感覚が残っている
皐月は…今何をしているんだろうか?
「案外この近くにいるかもしれませんよ?」
うを、良子ちゃんまで考え事につっこむとは…
「これもいづみさんのおかげですから。」
どうも先輩と付き合っているとエスパーが増えるようだ
そんな風に閉店処理を行っていると、慌ただしく先輩が外から戻ってくる
「たたたたたたたたたた、大変よ!!でででででででで、出たわよ!!」
「ちょっと落ちついてくださいよ。幽霊か変質者でも出たんですか?」
“どたどたどた”というマンガ的な音を立てて戻ってきた先輩
確かに、なんのボケもなく慌ててくる先輩は尋常じゃないかもしれないが…
「失礼ね夏樹クン!!人を“ボケ”扱いするなんて!
 読者の私に対するイメージが崩れるじゃない!!」
前言撤回、どうやら“ツッコミ”の方がよかったかもしれない
「そんなことより、出たのよ!!」
「だから、何が出たんですか?」
話しが堂々廻りしそうだったので、この辺で止めておこう
俺は先輩の話しを聞く体勢に入った、が
「皐月ちゃんよ!!!今来たお客さん、間違い無く皐月ちゃ…」
先輩が言い終わるより早く俺は店に出た
そこには…俺がずっと待ち続けていた光景があった
純白のサマードレス
純白のつばの広い帽子
白い肌に華奢な体
それと対象的な黒いつぶらな瞳
そこまでは去年と同じ、皐月のままだった
ただ一つだけ違うのは薬指に光る指輪
それだけが、去年とは違う時間が動いた証のように見えた
それは俺の左手の薬指の指輪と同じ輝きを放っていた
そして長く伸びたさらさらな黒髪がふわっと揺れた
間違いなく、皐月の…はずだった
その子は、俺の記憶の中に眠る女の子と同じ装いを見せながら、俺に会釈した
この子は俺の知っている皐月であって、あの皐月ではないと思った
「…あの、私に何か…?」
俺はそんな考えのまま、皐月のことを見続けていた
それを不信に思ったのか皐月はそう言った
そしてこの一言が俺の考えを確信のものに変えた
皐月はもう、いないんだということを…
全てを忘れてしまった人間は、同一人物と言えるのだろうか?
俺は…そうは思えない、例えそうなっても…そんな風に思わないだろう
そんな簡単に考えていたのかもしれない
だから昔の事さえ覚えていてくれればまたやり直せる、そんな甘い事を考えていたんだろう…
記憶を無くしてしまうという事は…悲しい事かもしれないけど
それよりも…もっと可哀想なのは…
その事を知ることすらできない本人が…一番、可哀想だった
だから俺は…
「あ…いらっしゃいませ!」
「えと…まだお店、開いてますか?」
「ええ、どうぞ〜。」
そんな風に、皐月は俺の横を通りすぎる
それは全ての決別
それは過去との決別を表していた
俺はその間、店に入ることは無かった
涙で前が見えないほどだったから
閉店処理をするフリをして、外にいた
だが
「あの、すいません…。」
「…ぇ?」
声にならない声で、その方に返事をする
そこには皐月がいた
「…あの、どうして泣いているんですか?」
「…ぇと…ちょっとゴミがね…ははは…。」
乾いた笑い声が空に消える
そんな俺に…皐月は言った
「あの…夏樹、さんですよね?」
「え…。」
皐月が、俺の名を、呼んだ
それだけで俺の涙は止まったたった
それだけのことだったが、俺は嬉しかった
「なんで、俺の名前を…?」
「な、名札に…書いてあるからそうかな、って…。」
「…そ、そうだよね…、うん、書いてあるもんな〜…。」
だけど、ただそれだけのことだった
そりゃ…名札を見ればわかることだ
でも嬉しかった
また皐月の声が聞けただけでも…嬉しかった
「あ、あの…なんですか?」
「あ、ああ…ごめんごめん。俺のよく知ってる子に似てたもんで。」
じっと見ていたらしく、少し怪訝な顔をする皐月
だが、その言葉に反応する皐月
「へぇ〜〜、その子って、女の子ですか?」
「ん、まあね。またその子との思い出がいろいろあってさ…。」
などとつい、俺は皐月との思い出を話し始めてしまう
再び会えたこと
バイトしたこと
海に行ったこと
手料理を作ってもらったこと
それだけなのに、皐月はずっと聞いていてくれた
俺の知る皐月ではないのに、俺の昔話に付き合ってくれた
「じゃあ、もうずっとその子に会ってないんですね…。でもその子って、今どうしてるんでしょうね?」
だからこんな…残酷な質問が出てくるのだろうか
「それでもまだ、夏樹さんはその子のことを…待って、いるんですか?」
無邪気な子猫のような目で聞いてくる皐月
今の俺には、とても痛くて鋭い刺だった
だけど…俺は…
「ああ、俺はいつまでも待つつもりだよ。その子のことが本当に好きだからね。
 それに失った物はまた作っていけばいい。だから俺は待つよ。」
俺は笑顔でそう答えた
そして、続けた
「皐月…まだ、思いだしてくれないのか…?」
たぶん言ってはいけない一言だと思う
きっと、言ったところで皐月を混乱させることは分かっている
だけど、どうしても…抑えることができなかった
今これを逃したら…もう一生会えない、そんな気がした
そして案の定、凍りつく皐月
そりゃそうだろう
いきなり知らない相手に名前で呼ばれたりすれば誰だって驚くだろう
だけど、もしもこれで思いだしてくれたら…そんな淡い期待
「今の話しは全部・・・君のことだよ、皐月。」
こう言えば、きっと、皐月はこう言うだろう
「え、えと…ご、ごめんなさい…。何を言ってるのか…。」
顔には出していないが内心かなり動揺しているんだろう
皐月はこういうときは必ず動揺したからな…懐かしいな
そして…今回もきっとこれで夏は終わる
毎年のように、来ては去り、来ては去りを繰り返す俺達の夏
それは寄せて返す波のようだった
これは俺の思い込みかもしれないけど…
幾度と無く、俺達は、この夏を彷徨えばいいのだろうか?
自分で何を言っているのか分からなかった
頭では理解できない
でも、体が覚えている
あといくつもの夏を乗り越えれば、俺達はこの輪から抜けだせるのだろう、と
ずっと昔から、昔と思える時間の概念を持たない程の時を繰り返してきた
その全てが…いつも、ここで終わる…


「だけど…あなたの名前だけは、忘れてないよ?…夏樹君…。」


終わる、はずだった
全てが終わって、再び始まる終わらない夏の、物語だったはずだ
そんな物語が、今…
「ごめんなさい、ごめんなさい!私…私…!」
そう言って皐月は…俺に抱きついた
あの時のままの、皐月の温もりが…嬉しかった
それ以降、俺も皐月も声が続かなかった
ただ抱き合っていた
去年と変わらない星空の下で、ただ…



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